機能不全に陥った民主主義・選挙。市民の権利を担保するため司法の機能強化も有効か
2020年11月21日
アメリカ大統領選がなかなか決着がつかない。否、予定された手続は履行されたはずなのだが、決着への不文律が履行されない。
米大統領選だけでく、昨今の日本の国会論戦や大阪都構想の住民投票を眺めていて、ふと頭に浮かんだことがある。それは、「民主主義が切り取られている」のではないかということだ。
そこで見られるのは、自身が支持する政策が実現し、好みの人間が選挙で勝てば「民主主義は機能している」と言い、自身が支持する勢力が負けると「民主主義は機能していない」と言う光景だ。民主主義が、自分の奉ずる価値観にお墨付きを与えるだけのハンコのようなものになってはいる。
そもそも民主主義とは、すべての人たちの「共通基盤」であり、議論の「前」に存在するものだったはずだ。しかし、いまや、議論が決着した「後」に、自身の立場を正当化するために民主主義が「切り取られたかたち」で出てくるようになった。
あたかも、それぞれの勢力が「部分的民主主義」なるものを事後的に主張しているかのようだ。
こうした「民主主義が切り取られた」現実を象徴的に示したのが、今回のアメリカ大統領選の前後に生じたのっぴきならない状態だ。
一つは、選挙で自らが支持する候補者が負ければ、暴力行為も辞さないという勢力が現れたことだ。街中の店は、起こりうる事態を明白かつ現実の危険ととらえ、ガラスドアや窓を段ボールで覆った。まさに近代以前、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」を彷彿とさせる、異様かつ異常な状況であった。
もう一つは、トランプ陣営が法律家を集め、選挙で投じられた票のカウントを止めさせる訴訟を提起をし、集計が終わった後も票の有効性を争う姿勢を見せるなど、司法を経由して投票及び投票結果の正当性を徹底的に攻撃することである。
いずれも、「決定したことが気に入らなければ受け入れない」ことの、事実上&法律上の表明である。民主主義を受け入れないという表明と同義だ。
民主主義を最も無機質に捉えると、「決定の装置」ということになる。われわれ人類が“間違いうること”を前提に、一人で決める「独裁主義」ではなく、みんなで決めて、だからこそ決まったことには恨みっこなし、という制度であったはずだ。
すなわち、「51対49」で決したときには、敗者となった「49」の人たちもその決定に従う。そのために大事なのが「プロセス」だ。それは、民主的過程における対話と熟議を共有するというプロセスである。
こうしたプロセスが蔑(ないがし)ろにされるリスクが高まっているのである。
トランプが大統領選で敗北したことにより、ヒーロー漫画のように、負けた“悪者”が宇宙の彼方に消えてなくなるわけではない。トランプも、トランプ支持者も、そしてトランプに投票した人々も、今後もアメリカに存在し続ける。
しかも、トランプの今回の得票数(2020年11月10日時点)は7090万3094票で、前回より792万3458票も増えている。トランプ的ルサンチマンはこの4年間で増大しているのである。
民主主義のキモは「参加」と「責任」にある。全員が参加したことの責任として、勝敗にかかわらず決定には「自発的服従」することよってはじめて、その決定が「公共性=公」を獲得する。アメリカで起きていることは、この公理を壊す。「勝者」を認めないと公然と宣言し、「自発的服従」を拒否する勢力が、半数近く存在し続けることになるからだ。
すなわち、トランプという人物と“一心同体”化した支持勢力が、民主的決定をめぐる市民の責任である「自発的服従」を拒否することによって、民主的決定が公共性を調達できなくなる。相対立する勢力が、決定のプロセスにおける一切の対話を拒否する世界では、“民主主義”は自分たちを正当化するための装置、対立構造を追認する、あるいはお墨付きを与える装置にしかならない。
本来、民主主義とは社会のベースにある360度のパイであったはずが、ピザのカットのように切り取られ、それぞれのパイを正当化するためだけの装置となったのだ。勝ったものにとっても、負けたものにとっても、民主主義はもはや360度のパイではなくなってしまった。
選挙期間中、トランプ、バイデン両候補の支持者同士が路上で激しく罵り合い、一触即発になる映像が流れた。そこから見えてくるのは、人々の怒りと疎外感を吸い上げたポピュリズムが生み出した「公私」の境界線の溶解であろう。
近代立憲主義において、「公」空間には存在すべきではない(とエリートが考えてきた)「怒り」や「疎外感」といったむき出しの「私」的情念が、そのままトランプやバイデンを媒介として「公」になだれ込んだ結果、「公」の最大の発露であるとされた公的「市民」としての立場での「投票」行動が、私的「個人」の立場からの敵対的意思表示に成り代わったのである。
そして、ここまで見てきた通り、私的「個人」の敵対的意思表示の集積としての民主的決定は、民主的正当性=公共性を具備しない。
日本においても、もはや政権与党を支持する人々と、反政権の人々とでは、「見ている世界」が大きく変わってしまったようだ。
安倍政権時代の世論調査で、産経新聞の読者層で安倍政権を支持すると答えた人々が86%なのに対し、東京新聞の読者層の安倍政権支持は5%という結果があった。マーケットの原理も加担して、読者は読みたいものしか読まず、メディアは上顧客が望む論調にあわせることによって、メディアによる政権や反政権の色分け・棲み分けが固定化・再生産されている。
大統領選でも、FOXやCNN、ニューヨークタイムズなど、メディアごとに発信する情報に差異がありすぎる点が指摘された。こうなると、政権支持の人と反政権の人はまったく異なる世界を生きているのと同時に、それぞれが自分の世界だけが世界なのだという「フィルターバブル」のなかで生きていることになる。
拙著『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)でも言及したが、新聞やテレビといった従来型メディアから情報を摂取している人は、視聴したり購読したりするテレビや新聞に、ある種の偏りがある(例えば、東京新聞を取っている人はTBSの「サンデーモーニング」を見ている可能性が高い)。つまり、主に従来型メディアから情報摂取している人の方が、考え方が先鋭化しやすいという調査結果がある。
メディア自体が「部分的民主主義」に同化すると、その拡散が加速しかねない。メディアや表現の自由が民主主義と密接不可分だとすれば、メディアに与えられた表現の自由の公共的使用という使命を放棄するものである。
民主主義において重要なのは、たとえ価値観が違っても、個々人は同じ世界で生きており、同一平面状に個人が異なりながらもプカプカ浮いているというイメージである。それぞれが異なる「世界」を見ていては、民主主義は成り立たない。そこで言われる民主主義は、言ってみれば個人ごとに異なる「民主主義」であり、だからこそ、自分の主張が勝てば「民主主義だ」と称賛し肯定するが、負けると相手の「民主主義」を否定するということになる。
ポピュリストは、自分「だけ」が国民の代表者であり、自分の民主主義「のみ」が「正しい」とする特徴があるという。この定義によると、日米の現状はもはや与野党ともにポピュリズムだということになる。
民主主義で大切なのはゲームのルールだ。サッカーや野球で、各チームがそれぞれ違うルールに従っていては、試合にならない。ルールは共通でなければならない。選手ごとに違うルールを張することも許されない。
私は「人の支配」に与しないが、「人」によって一点突破・全面展開するような場合があることは否定しない。今回のアメリカ大統領選におけるカマラ・ハリス副大統領の誕生は、その誕生自体をもってシンボリックに多様性と寛容及び統合を体現し、歴史(時間)と国家的枠組み(場所)を飛び越えて、淀んで凝固してしまったアメリカ内部の様々な自由や多様性の“澱”みたいなものを刺激する起死回生になるかもしれないし、それを望む。
カマラという「人」に期待するからこそ、「バイデン&カマラ・ハリス」のコンビには、根幹から揺らいでいる「法の支配」をどれだけ再構築し、具体的に提示していくのかに期待し、注目している。
善き統治者による善き統治を期待することと、どんなに善き統治者であっても、その統治者を法で適切に統制しようとし続けることとは両立すると私は考えている。裏を返せば、法の支配を重視することと、善き統治者が現れて、善き統治をしてくれることを望むこととは、なんら矛盾しない。
要は、人を見て「素敵だな」と思うその感覚を大事にしたいのである。結局のところ、そのような直感やわれわれが感じる雑多な“情念”のようなものの集積もまた、民主主義なのだから。
自由、法の支配、民主主義といった価値を尊重してきたアメリカの価値による「統合」のエッセンスが、リベラルエリートの「冷たさ」と相まって、どこまでいっても“口だけ”の建前としてしか機能しなくなったのが、現代アメリカ社会のコンセンサスなのは事実だ。
アメリカ統合のアイデンティティが風化し、自分たちをケアしてくれない「キレイゴト」よりも、怒りや疎外感を投影できて癒してくれるポピュリストを選択したくなる感覚は、理解できる。こうした感覚をすべて排斥しては、状況の打開はできない。
では、どうするのか? 民主主義を立て直すことは果たして可能なのか?
私は、「法」という一般的なルールに再度賭けてみたいと思う。
法を否定、あるいは融通無碍に利用したトランプ自身が今回、自身の正当性の駆け込み寺として司法=裁判所にすがったことは、笑えないアイロニーでもあるが、同時に瓦解しつつある民主主義への一抹の希望も見いだせる。これは、我が国にも通底する問題意識である。
すなわち、民主主義や選挙が機能不全を起こしているのであれば、市民の権利や公的対話を担保するために、今ある部分的民主主義の相対化(弱める)戦略として、司法の機能を強化し、法の役割をよりきめ細やか、かつ広範に及ぼすということである。
そのためには、法の権力者による解釈の幅をできるだけ少なくするよう「規律密度」を上げ、原告適格や訴訟の利用の簡便性を含めた人々の法へのアクセスをより広範かつ容易にし、裁判所の判断のオプションを増やし、強制力も強める必要がある。
その一例として、現在、総務省及び有識者会議が検討しているような、ネット上の誹謗中傷表現に対して、被害者が訴訟をしなくても、裁判所が事業者側に投稿者の情報を開示させる手続きなどは、この観点からは歓迎すべき制度である。
ネット空間での言論は、いまや民主主義に不可避であるにもかかわらず、過剰に一方向を向いた言説が言論空間を占拠したり歪めたりするばかりか、個々人の尊厳までをも根源的に傷つける手段になっている。法という一般的なルールによって、権利回復や歪められた言論空間の是正する手段を創設することは、切り取られた民主主義を法で手当てする一つの企てと評価できよう。
今やアメリカでも、「自分は保守だ」と認める人の割合が、リベラルを自認する人の倍にのぼると言われている。いわゆるリベラリズムは「古い」ものとされ、リバタリアンからはクラシックリベラリズムと区別される。リベラリズムが真の意味で自由の尊重と寛容を求める利他主義的なリベラルではなく、冷たいエリート目線の個人主義に堕してしまったことへの、社会の率直な反応なのだろう。
リベラルな価値観が内包する奢(おご)りとそれによるリベラルの衰退が、人々の怒りや疎外感の受け皿としてのポピュリズムや偏狭なナショナリズムを増長させた。そしてポピュリズムが、「私“だけ”」が国民を代表しているという多元主義を否定する「極端な」姿勢をとることで、対話を不可能にしている。
左右の統合を掲げたオバマは、左右の対立が先鋭化するなかで理想を断念したが、オバマ時代よりも左右の確執が剥き出しになった現在、対立の統合はますます容易ではない。
保守主義の立場をとるイギリスの政治哲学者のマイケル・オークショットは、個人主義的な理性を強調し、精神を伝統や慣習から独立させようとする姿勢を「合理主義者」として批判するとともに、物事には完全かつ画一的な「正解」があるという前提を、政治の場で実践しようとする企てに警鐘を鳴らした。
彼は、慣習や伝統の蓄積による実践を「実践知」と位置づけ、「合理主義者」と対置する。「自由」や「民主主義」という理念は、最初からそこにあったわけではなく、歴史的経験と実践が抽象化された「自由の帰結」である。それゆえ、「帰結」だけを取り出して採用してもうまくいかないというのだ。
日本もアメリカも、「自由」な「民主主義国家」といわれる。しかし、この「自由の帰結」のみをいくら叫んでも、真に「自由」で「民主主義」なのかは疑わしい。対立よりも対話、批判よりもオルタナティブの提案という、当事者が相互にかかわり合うダイナミズムを通じてこそ民主的なプロセスは醸成される。多数決で負けた人々や傷ついた少数者に、“セラピー”的な同情と共感のフレーズをかけるだけでなく、具体的制度やルール(法)によって、より多くの人の自由を確保・実現してこそ、自由な社会を獲得できるはずだ。
とすれば、結局のところ、冒頭で触れた民主主義が切り取られている現状は、具体的な実践の欠如、ないしは放棄からくるものではないか。
オークショットはまた、社会や個人と向き合うビジョンとして、「会話」という概念を掲げる。
「会話」は何のためにするのだろうか。相手を変えるためだろうか。そうではない。会話の要諦は、一つの大きな声で結論を出すことではなく、様々な言葉や声色という異質性を互いに尊重しあい、同化や純化を迫らない点にある。会話は、会話すること自体が、目的なのだ。
オークショットが唱えるこうした「会話」のビジョンからすれば、大統領選における候補者討論会の罵り合いは、まったくもって「会話」になっていない。だが実は、あの討論会の光景は、そのままアメリカの社会構造といってもよい。異質性を尊重せず、同化や純化を迫るという意味で……。
バイデンはこうした社会構造を背景に政権をスタートさせる。それこそが、バイデン政権がこれから向き合う困難の核心に他ならない。
貴族や王政を経験せず、むしろこれへの反発から生まれたアメリカでは、いわゆるヨーロッパ的な保守主義は育たなかったし、政府による画一的社会設計も拒否したことから、社会主義も根付かなかった。その結果、自由主義の枠内で、保守とリベラルが緩やかに対峙(たいじ)する関係が存在した。
しかし今は、近視眼的な自己との関係性を最大化するための、自国第一、かつ排外主義的な保守主義と、個人主義化し、政府介入も是認する責任ある寛容な「自由」を放棄したリベラリズムが、原理主義的に対立し、相互の対話が不可能になっている。
ヘレナ・ローゼンブラットが『リベラリズム失われた歴史と現在』(三牧聖子、川上洋平訳、青土社)で指摘するとおり、リベラリズムとは本来、その対義語が「利己主義」であることから分かるように、利他主義的で道徳的な概念であった。
とすれば、リベラルと保守とは、歴史(時間)や地域(場所)という自身の置かれた関係性との距離感に差こそあれ、人間の合理性や理性の限界を前提に、画一的かつ統一的な社会設計ではなく、個々人の選択や多様性を保障することによって生まれる自生的秩序を重視し、これらを確保するために「法」や一般的かつ明確なルール(制度)を不可欠のものとする点において、おそらく共通しているのである。
保守思想の起源とされるエドモント・バークも、自由主義の急先鋒とされるハイエクも、同様の問題意識を有していた(ハイエクがバークを自由主義者として想定しているのは大変興味深い)。要するに、保守かリベラルかという「区別」はさほど大事なことでなく、有害ですらあるということである。
なぜ「リベラル」がリベラルたり得るのか。保守はいったい何を保守するのか。ともに、大切にすべき価値や制度をまず見つめ直すことが、なにより重要である。
「~主義」「~イズム」という上位概念の選択を迫って差異を強調することに意味があるのか。それよりも、共通する問題意識を“いいとこどり”して、実践を積み上げていくことが肝要ではないか。
我が国でも昨今、「悪魔のような民主党政権」「こんな人たち」といった具合に、まるで「会話」にならない権力者同士の罵り合いばかりが目につく。複雑さを増す現代社会では、「民主主義」を「会話」のイメージで機能させるのは、いっそう困難になっているのかもしれない。
だが、それだからこそ、複雑化した様々な価値の対立のなかから、“いいとこどり”をしつつ、「会話」を仕切るルールとして、「法」と「法の支配」の構築・再生が急務なのである。
難しく考えることはない。まずは、これを読んだあなたが、“会話することだけを目的として”、誰かと「会話」してみてはどうだろうか。そこから、何かがはじまるかもしれない。(敬称略)
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