米大統領選で顕在化した「切り取られた」民主主義。修復は可能なのか?
機能不全に陥った民主主義・選挙。市民の権利を担保するため司法の機能強化も有効か
倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)
「公私」の境界線を溶解させたポピュリズム
選挙期間中、トランプ、バイデン両候補の支持者同士が路上で激しく罵り合い、一触即発になる映像が流れた。そこから見えてくるのは、人々の怒りと疎外感を吸い上げたポピュリズムが生み出した「公私」の境界線の溶解であろう。
近代立憲主義において、「公」空間には存在すべきではない(とエリートが考えてきた)「怒り」や「疎外感」といったむき出しの「私」的情念が、そのままトランプやバイデンを媒介として「公」になだれ込んだ結果、「公」の最大の発露であるとされた公的「市民」としての立場での「投票」行動が、私的「個人」の立場からの敵対的意思表示に成り代わったのである。
そして、ここまで見てきた通り、私的「個人」の敵対的意思表示の集積としての民主的決定は、民主的正当性=公共性を具備しない。

ワシントン記念塔の前に集まったトランプ氏の支持者とバイデン氏の支持者。互いに口論になる場面も=2020年11月7日午後3時、ワシントン、大部俊哉撮影
「部分的民主主義」とメディアのつとめ
日本においても、もはや政権与党を支持する人々と、反政権の人々とでは、「見ている世界」が大きく変わってしまったようだ。
安倍政権時代の世論調査で、産経新聞の読者層で安倍政権を支持すると答えた人々が86%なのに対し、東京新聞の読者層の安倍政権支持は5%という結果があった。マーケットの原理も加担して、読者は読みたいものしか読まず、メディアは上顧客が望む論調にあわせることによって、メディアによる政権や反政権の色分け・棲み分けが固定化・再生産されている。
大統領選でも、FOXやCNN、ニューヨークタイムズなど、メディアごとに発信する情報に差異がありすぎる点が指摘された。こうなると、政権支持の人と反政権の人はまったく異なる世界を生きているのと同時に、それぞれが自分の世界だけが世界なのだという「フィルターバブル」のなかで生きていることになる。
拙著『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)でも言及したが、新聞やテレビといった従来型メディアから情報を摂取している人は、視聴したり購読したりするテレビや新聞に、ある種の偏りがある(例えば、東京新聞を取っている人はTBSの「サンデーモーニング」を見ている可能性が高い)。つまり、主に従来型メディアから情報摂取している人の方が、考え方が先鋭化しやすいという調査結果がある。
メディア自体が「部分的民主主義」に同化すると、その拡散が加速しかねない。メディアや表現の自由が民主主義と密接不可分だとすれば、メディアに与えられた表現の自由の公共的使用という使命を放棄するものである。
価値観が違っても同じ世界で生きるイメージ
民主主義において重要なのは、たとえ価値観が違っても、個々人は同じ世界で生きており、同一平面状に個人が異なりながらもプカプカ浮いているというイメージである。それぞれが異なる「世界」を見ていては、民主主義は成り立たない。そこで言われる民主主義は、言ってみれば個人ごとに異なる「民主主義」であり、だからこそ、自分の主張が勝てば「民主主義だ」と称賛し肯定するが、負けると相手の「民主主義」を否定するということになる。
ポピュリストは、自分「だけ」が国民の代表者であり、自分の民主主義「のみ」が「正しい」とする特徴があるという。この定義によると、日米の現状はもはや与野党ともにポピュリズムだということになる。
民主主義で大切なのはゲームのルールだ。サッカーや野球で、各チームがそれぞれ違うルールに従っていては、試合にならない。ルールは共通でなければならない。選手ごとに違うルールを張することも許されない。