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社会党(社民党)よ、ご苦労さま~75年の歴史を経て消滅の危機 

保守政治の暴走を防ぐために政治の一画に社会党的絶対平和主義者の存在も必要だ

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

“最終決戦”に敗れ、絵に描いた餅になった社会主義

 それにしても、保守の自民党と対峙してきた革新の雄である社会党はなぜ、衰退、消滅の道を辿ったのか。一言でいうのは難しいが、やはり時代の流れを洞察できなかったこと、それゆえに時代に先手を打って対応できなかったからと言うほかない。

 社会党の絶頂期は「60年安保」の頃と言っていいだろう。まさしくそれは、実質的には日本がその後も自由主義体制でやっていくのか、それとも社会主義体制に転換するかの“最終決戦”であった。

 社会党はこの安保決戦で敗北し、体制転換の突破口をひらくことはできなかった。その後も社会主義への「体制転換」を綱領に掲げ続けはしたが、池田内閣のもとで急展開した高度経済成長のなか、政策的関心や活動の基軸を「政治から経済へ」へと移さざるを得なかった。

 つまり、60年代以降の社会党は総評等の労組と歩調を合わせ、賃上げなどの経済的要求や、公害、物価高などの生活関連要求の実現に力を尽くす。それにつれて、日本の社会主義化という政治目標は絵に描いた餅になったのである。

55年体制の崩壊で基本姿勢の転換を迫られ……

 昭和の末期から平成の初頭にかけて、社会党は村山富市、土井たか子といった優れた指導者を得た。土井委員長は「消費税反対」と「PKO反対」の世論の先頭に立ち、一時的に社会党の党勢をよみがえらせた。1989年の参院選で大勝、「山が動いた」という名言を残したことは記憶に鮮やかだ。

 だが実際には当時、社会主義は急速に魅力を失っていた。89年末、ブッシュ米大統領、ゴルバチョフソ連共産党書記長の両首脳によって冷戦の終結が宣言されると、ソ連の影響下にあった東欧諸国が次々と社会主義を捨てて、自由主義への体制転換を果たした。

 こうした世界の潮流の日本への影響は、1993(平成5)年の衆議院選に際して「55年体制」、すなわち、自民党と社会党の二党が主導する体制を終わらせる事態となって現れる。具体的にいうと、非自民の政党・会派が連立して、細川護熙政権が樹立されたのだ。

 55年体制の崩壊という激流は、社会党に、日米安保、憲法、自衛隊、日の丸・君が代に関する基本姿勢の転換を迫ることになった。

 細川連立政権のもとでの与党への参画、社会党委員長が首班となった村山富市政権の発足という政治の変動のなかで、社会党の基本政策の転換を主導し、その責任のすべてを引き受けたのはほかならぬ村山富市委員長であった。だが、実は彼にとってこの転換は決して唐突なことではなく、長年にわたる苦悩の結果であった。

拡大衆議院の代表質問で「自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する」と答弁したことについて、記者団の質問に「(自社さ)連立政権の首相として述べた」と語る村山富市首相(社会党委員長)=1994年7月20日

日の丸・君が代を巡る村山・久保両氏との会話

 1994年4月に細川内閣が総辞職し、新党さきがけと社会党が非自民連立から離脱した羽田孜内閣のときだったと思う。新党さきがけの代表代行だった私のところに、村山委員長と久保亘・社会党書記長が「意見を聞きたい」と突然訪ねてきた。

 何ごとかと聞いてみると、「近年社会党内で、日の丸・君が代を認めるための真剣な議論をしている」とのことだった。それについての私の意見を聞きたいという。

 私は「それはありがたい話です」と歓(よろこ)び、

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筆者

田中秀征

田中秀征(たなか・しゅうせい) 元経企庁長官 福山大学客員教授

1940年生まれ。東京大学文学部、北海道大学法学部卒。83年衆院選で自民党から当選。93年6月、自民党を離党し新党さきがけを結成、代表代行に。細川護熙政権で首相特別補佐、橋本龍太郎内閣で経企庁長官などを歴任。著書に『平成史への証言 政治はなぜ劣化したのか』(朝日選書)https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=20286、『自民党本流と保守本流――保守二党ふたたび』(講談社)、『保守再生の好機』(ロッキング・オン)ほか多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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