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石破茂はどこで間違えたのか~自民党総裁選「惨敗総括」(上)

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

 4度目の自民党総裁選挙に挑んだ石破茂にとって、その結果は非常に厳しいものだった。国会議員票はわずか26票、強みとなっていた地方票は1位の菅義偉の半分に届かない42票にとどまった。総得票は、菅377票、岸田文雄89票、石破68票。

 この結果を受けて石破は、自らの派閥「水月会」の会長を辞任。現在、後継会長も決まらず、自民党内政治力の源泉である派閥の存続にも疑問符がつきつつある。

 この事態を受けて私は石破に緊急インタビューを試みた。疑惑や不祥事の尽きることのなかった安倍体制に正面から異論を発し続けてきた政治家・石破茂は死んだのか? 

 その答えは一つひとつの問答の中にあった。お読みいただきたい。

派閥会長の辞任を表明後、取材を受ける自民党の石破茂元幹事長=2020年10月22日、東京・永田町

なぜ総裁選に勝てなかったのか?

――まずズバリお聞きします。9月14日にあった総裁選から2か月以上経過しましたが、現在の時点から顧みて石破さんの敗因は一体何だと分析されていますか。

石破 もちろん負けたのはすべて私の責任ですが、私を総裁には絶対にしたくないという強い意志がどこかにあって、そのためにいろいろな作為があったという印象はありました。

 安倍総理が体調不良でお辞めになったことで同情的な世論があって、その後に菅先生が登場される。秋田出身の、苦労人の、「パンケーキが好きな令和おじさん」というイメージがほとんど一夜にして流布されました。

 そして、朝日新聞が総裁選前に世論調査をやったら、以前は5%ぐらいだった菅先生の支持率が40%ぐらいに跳ね上がっていた。あれには正直、驚きました。

 また、時を同じくして自民党のほとんどの派閥が菅先生の支持を打ち出しました。総裁選に限ったことではありませんが、選挙というものはやっぱり「勝ち馬に乗りたい」という心理がものすごく増幅されるんですね。結局、政策とか党のあり方とか、そういう議論は、少なくとも大きな流れにはならなかった。

 焦点はかなり早くから、どうやって菅内閣においてポストを確保するかということに収れんしていった。そういうことの一番遠いところに私がいたということでしょう。

――今の話を聞いていて「石破茂という政治家は死んでないな」と確信しました。しかし、今回の総裁選を振り返ると、総裁選の前に「菅・二階」VS「安倍・麻生」という暗闘の構図があり、「菅・二階」組がその暗闘を制していました。そのために総裁選をやる前に、議員票はすでにどうしようもないほど菅一本にまとまりました。私はこの動きをほとんどリアルタイムで掴んでいました。石破さんは知らなかったのですか。

 私は6月上旬にすでに「菅・二階」VS「安倍・麻生」の暗闘の構図を掴んでいた。この構図を動かす中心人物は二階俊博・自民党幹事長で、情報によれば二階幹事長の手には二、三枚のカードが握られていた。一枚は菅で二枚目は石破だった。しかし、石破カードはあくまで安倍、麻生に対する牽制用で、決して本命とはなりえないという情報だった。私は安倍前首相が辞任会見に臨んだ日のちょうど1週間前の8月21日、情報に基づいて「安倍内閣総辞職の可能性」を日本のジャーナリストとして初めて論座『ポスト安倍は「麻生」か「菅」か/安倍vs二階の攻防激化~安倍内閣総辞職の可能性強まる。「佐藤栄作」越えの24日以降か』で報じ、その後の「菅・二階」VS「安倍・麻生」の暗闘について、Twitterを通じてリアルタイムで情報を流し続けた。

石破 知っていましたよ。

――知っていたにもかかわらず、なぜ戦いを挑んだのですか。どういう理由から立候補されたのですか。

なぜ菅氏に戦いを挑んだのか?

石破 それは、自由民主党というものはかくあるべきだ、ということを誰も言わないような政党であってはならないからです。自民党は野に下った時に新綱領を作りました。

 《自民党は勇気をもって真実を語る党である。自民党はあらゆる組織と協議する党である。自民党は国会を公正に運営して政府を謙虚に機能させる党である。自民党は政策を作るにあたってはすべての人に公平な党である》

 これらのことを野党の時に決め、そしてそれを掲げて政権に復帰したはずだ。こんな大事なことを忘れていませんか。それを誰も言わない、そんな自民党であってはいけない、ということです。後世、「あの時、誰も何も言わなかったのか」と言われるようなことではいけないと思ったからです。

 政策について言えば、最大の問題は人口減少です。これを放置すればこの国はサステナビリテイを完全に失う。これを解決するための地方創生というのは、単なる地域振興策ではない。国の形を根本から変えるということであって、それが今一番必要なことだと私は思っているのです。

 現下の新型コロナウイルス対策についても、特別措置法は改正しなければならないでしょう。いろんな僥倖に恵まれて、感染者数、重症者数はある程度抑えられているけれども、それはいつまでも続かない。

 変えるべきところは変えていかなければならないということです。日本版CDCも作らなければなりません。そうでないと、科学的知見と社会政策をバランスさせることができないと考えるからです。

 外交面においても、日米地位協定は改定しなければいかんとか、沖縄の問題は本当に沖縄ときちんと正面から向き合っていかない限りは解決しないとか、問題はたくさんあります。総論でも各論でも、こうあるべきだということを今きちんと言わない、という選択肢は自分にはなかったということです。

 そして、こういうことは誰でも言えるわけじゃない。推薦人が20人いてくれなければそもそも言える立場にも立てない。少なくとも言える立場を与えていただいた自分に、言わないという選択肢はない、と思ったのです。

 ――おっしゃることは非常に立派なことだと思います。

自民党総裁選の所見発表演説会に臨む菅義偉官房長官(左)と石破茂元幹事長=2020年9月8日、東京・永田町の自民党本部

 「菅・二階」VS「安倍・麻生」という暗闘の構図は明確な政治目的を達成するための積極的な理由から生じたものではなく、互いに抱える不祥事や疑惑の発覚を抑えるための消極的な背景から出てきたものだった。その背景などについて、私は8月29日の論座『「安倍・麻生」vs「二階・菅」 国家権力を私物化する総裁選の行方』で詳しく報告し、途中で出てきた「総・総分離論」についても報じた。暗闘の過程で菅や麻生の名前に加えて河野太郎や野田聖子らの名前も一時浮かんできた。やがてそれらは泡沫のように消えてゆき、9月を迎えて自民党内は菅の名前に一本化されていった。

――先ほど私が言った総裁選の前の基本的な暗闘の構図、「菅・二階」VS「安倍・麻生」という構図があって、その暗闘の結果、すでに自民党内の大勢は菅一本化に固まっていました。それを前にしてもなお言うべき正論は言わなければならないという石破さんの決意は、言ってみれば火中の栗を拾ったということだと思います。

 しかし、そのことを言うだけではなく、まさにその正義を実現するためには、やはり菅一本化となったこの構図そのものを打ち破るものがないとなりません。そこのところで、この暗闘の構図を事前に知っていた段階で、これに勝つためにはどうしたらいいかという策は練らなかったのですか。

石破 それは、思いつかなかったということでしょうね。菅さんに一本化されたから、われわれも菅候補で行くのか。でも、それは勝つことにはならない。

――それは、勝つことではまったくありませんね。

なぜ二階幹事長にアプローチしたのか?

石破 ただ、それでも不安があったので、両院議員総会で決めるとなったのでしょう。本来の総裁選挙を実施して、党員票で私に負けるようなことがあってはならない。そういう恐れはあったのでしょうね。

 党員の投票ウエートが3分の1に下がったのも、同じ理由があったという人もいます。初日の立候補表明演説会も、コロナ対策ということで人数を絞りました。いつもは自民党のホールでやりますが、もしコロナ対策ということなら、それこそ高輪プリンスホテルのような広い会場で有権者である国会議員や地方の代議員など、できる限りの人数で演説会をやる、という可能性もあったのではないかと思うのです。

 でも、結局は街頭演説もやらない、地方の演説会もやらない、ということになってしまいました。

 2年前の安倍さん対石破の対決では、私が党員票の45%ものご支持をいただきました。でもあの時も、聴衆の前でやったのは三重と佐賀だけだった。あとはクローズで、演説会もやらない。国会議員みんなに話を聞かせるということもやらない。候補者同士の討論も郵便投票がほとんど終わった後でした。

 そもそも論として、こういったルールからひっくり返すというのは難しくないですか。だから、自分にとっては不利な状況ということは分かっていた。でも、難しいからやらない、という選択肢はなかった、ということだったのです。

――振り返ると、総裁選の前の微妙な時期である6月上旬に、二階幹事長を石破さんの派閥「水月会」の勉強会講師に呼びました。この目的は何だったのですか。

 また、その月の中旬には、ますずしを総裁選推薦人と同数の20箱、二階事務所に届けました。このことを報道した記事によると、二階事務所では「あの石破さんが」と驚きの声が挙がったとされています。この狙いは何だったのですか。

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