憲法審査会がやるべきは憲法に関する論点の形成と整理と熟議のデモンストレーションだ
2020年11月28日
「動かず」の衆院憲法審査会が、軋(きし)み音を上げながら動き始めている。11月26日、2年あまり審議が止まっていた国民投票法改正案について、初めて実質的な審議が行われた。
この改正案は駅や大型商業施設での投票所設置の拡大など、2018年の公職選挙法改正で決まった内容と平仄(ひょうそく)を合わせるものであり、広告規制などの本質的な論点にはまったく踏み込んでいない。だからこそ、この程度の改正は「さっさと」終わらせ、本質的な改正事項に早く踏み込んでほしい。
今回、あえて本稿の筆をとったのは、国民投票法改正案の審議を巡って、党派性や属人的願望などに毒された感情的な言説が飛び交い、「#国民投票法案改正に抗議します」のハッシュタグとともに、ファクトを無視したオピニオンがまかり通ることにより、憲法についての議論の先鋭的かつ不適切な部分のみが「過剰に」印象づけられ、憲法論議そのものが人々の心からさらに離れることを危惧したからだ。とりわけ野党の一部から出ている、「国民投票案改正を認めれば、憲法改正を強行される」といった言説は、適切な現状認識を欠いたもので、問題が大きい。
「#」に熱くなっている人だけでなく、「#」をみて「またか……」と感じて憲法論議から「引いて」しまっている人に、ぜひ本稿を読んでいただきたい。まずは冷静に事態をとらえ、安心を取り戻し、憲法論議からいたずらに引くことなく、とどまって欲しいと思う。
まずもって、現状において憲法改正は不可能である。理由は以下のとおりだ。
(1)まず形式的な理由として、現在、いわゆる「改憲勢力」を合計しても、参議院では三分の二である164人に満たない。皮算用しても、形式的に憲法改正の発議は不可能なのである。
そもそも、この「改憲勢力」という“マジックワード”が曲者だ。これはマスメディアの政治部(政局部?)が政局を煽(あお)るために作り出したワーディングである。本来、超党派で議論すべき憲法論議において、「三分の二」vs「三分の一」という党派的構図をことさら強調することは有害でしかないと考える。
(2)次に、(1)の後段と関係するが、「改憲勢力」は一枚岩ではない。政治学者のケネス・盛・マッケルウェイン氏(東大社会科学研究所教授)が引用する東大学務システム(UTAS)の調査資料によれば、2017年衆議院議員選挙全当選者のうち、全体の82%(自民党の97%、公明党85%)がなんらかの改正を支持している一方で、具体的な改正案の賛成についてみると、9条改正:41%▼緊急事態条項:47%▼地方分権化:20%▼環境権の追加:20%▼解散権の制限:10%▼知る権利の創設:7%、と、いずれも三分の二はおろか、半数にさえ満たない。また、たとえば9条について、自民党当選者で62%が賛成なのに対して、公明党当選者の賛成は10%にとどまる。
すなわち、「憲法改正を強行される」という論者が叫ぶ「三分の二」は、実態を無視した議論であり、現実的な項目で見れば、三分の二を獲得できる項目など存在せず、憲法改正のコンセンサスなど到底不可能なのである。したがって、催眠術か脅迫でもしないかぎり「強行」は不可能である。
(3)次に実体的理由であるが、自民党政権に憲法改正についての「本気さ」がないことである。(2)でみたとおり、9条を含めた改正には連立を組む公明党の賛成が必要不可欠であるが、公明党との真摯な与党間協議はまったく行われていない。2015年の安保法制制定に際し、憲法解釈にまで立ち入って公明党と協議したのと比べ、本気のなさが際立つ。
そもそも、自ら改憲提案をしてまで「戦後レジームの脱却」を訴えた安倍晋三前総理の在任時、国会では改憲勢力が三分の二を占め、形式的要件は満たしていた。にもかかわらず発議をしないばかりか、与党間協議をしなかったのは、憲法改正の意思がないからに他ならない。
戦後の自民党政権は、改憲を唱え続けた中曽根康弘元総理でさえ、政権を安定的に運営するため改憲提案を封印したことを考えれば、安倍前総理はポーズでこそあれ、方針は一貫している。ほんとうに「強行」する意思があるなら、もうとっくにされているはずだが、されてこなかった。この事実を、「野党が頑張ったから」という“見たい世界だけを見る”という希望的観測の色眼鏡をかけて見てしまうと、事実を正確にとらえられないので気をつける必要がある。
(4)2006年の国民投票法制定時に、枝野幸男議員から故保岡議員まで含めたコンセンサスとして、憲法改正原案の起草は「合同審査会」によって行うとされてきた(国会法102条の8)。しかし、いまだにこの合同審査会の運営についての規則すら制定されていない。ここにも、改憲議論の本気度のなさが現れている。
(5)最後に、憲法審査会運営の恐ろしいまでの怠慢さである。他の委員会が週に複数回、朝から晩まで行われるのに対して、憲法審査会は週に1回開かれれば「御の字」で、開催されても1時間程度しか行われない。「衆議院インターネット中継」のアーカイブを見れば明らかだが、審議会の核心である「自由討議」も委員長の差配しだい、どこかの政治集会の運動家かと見まごうような言いっぱなしの意見表明があったり、発言の機会を求めても指名されない議員がいたり、議論が噛み合って昇華していくような進行が行われることはまずない。
要は、短時間かつカオスな運営がまかり通ることで、充実した憲法論議が確保されていないのだ。
以上の説明で理解いただけたと思うが、憲法改正の発議がされてこなかったのは、実は国民投票法改正案による駆け引きの結果ではなく、単純に数が足りなかったり制度が整っていなかったりで物理的に無理だったからという「形式的理由」(客観的理由)と、もっぱら「意思(のなさ)」(主観的理由)によるものである。「国民投票法改正案を野党が頑張って議論しなかったから、憲法改正の発議が食い止められてきた」のでは決してない。
このような憲法及び憲法改正論議を巡る“病理”は、政局及び政治的駆け引きというよりも、国会議員の心の奥底に染み付いた「思い込み」にある。この点を次に論じたい。
今年11月19日の衆院憲法審査会で共産党の赤嶺政賢議員が、憲法改正自体に反対の立場から、「憲法審査会を動かすべきではない」などと発言していた。
日本国憲法では、憲法自体がその憲法を保障するために憲法改正を予定し、しかもその発議権は国会議員に独占されている(96条)。すなわち、発議権を独占している国会議員こそが現行憲法の運用上の問題点や改善点を真剣に議論し、争点整理と争点形成を経て憲法のアップデートが必要かどうかを常に点検して、国民に提示する責任がある。
「国民がまだ憲法改正を求めていない」などと説教台から諭すような言説がたまにされるが、それは国会議員が争点整理と争点形成を適切に行っていないことが大きな要因だ。安倍改憲や自民党の「4項目」もひどいが、議論を拒否する勢力もひどさの点では同根である。
『憲法と世論』(境家史郎著、筑摩選書)で境家氏が戦後の世論調査をあまねく分析して指摘しているとおり、憲法改正については、戦後一貫して「賛成」と「反対」が拮抗(きっこう)している。「国民が望んでいない」という言説は、改正を望まない人の「私が望んでいない」という言葉を投影しただけの、ファクトを無視した言説であり、“神話”といっていい。
赤嶺発言と同日の辻元清美議員(立憲民主党)の発言も看過できない。
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