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菅総理と検察が安倍氏に迫る「政界引退」

「安倍前首相秘書ら聴取」の舞台裏と今後の行方を読み解く

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

 シェイクスピアの惨劇が現代日本の政治状況の中で甦りつつある。創作前期の史劇群から後期の悲劇群への橋渡し作品となった『リチャード3世』の主人公は、権力への野心だけを頼りに実兄をはじめとする親族や臣下を冷酷に粛清し尽くし、王座に上り詰めていく。

 権力のために、自らが殺した皇太子の未亡人を口説き落として妻とし、薔薇戦争の最後に殺されるまで、ただ権力だけにしか関心のなかった男。

 現代の「リチャード3世」は誰なのか。私は今、あえて名指しすることはしないが、11月23日、勤労感謝の日の読売新聞朝刊1面を見た読者は意外な驚きを味わい、政界関係者はある種の戦慄を味わったのではないだろうか。

 1面左肩にあるその見出し「安倍前首相秘書ら聴取」という記事の書き出しはこうなっている。

 安倍晋三前首相(66)側が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡り、安倍氏らに対して政治資金規正法違反容疑などでの告発状が出されていた問題で、東京地検特捜部が安倍氏の公設第一秘書らから任意で事情聴取をしていたことが、関係者の話でわかった。

 これに続く文章を読んでみると、さらにこうある。

 特捜部は、会場のホテル側に支払われた総額が参加者からの会費徴収額を上回り、差額分は安倍氏側が補填していた可能性があるとみており、立件の可否を検討している。

 この日の朝日新聞1面は、新型コロナウイルスの日本の死者総数が2000人を超えたというニュース。安倍氏の公設第一秘書が地検特捜部から事情聴取を受けたという記事はどこにも見当たらない。朝日だけでなく、毎日や東京などどの新聞にもない。つまり、読売のスクープである。

 私に入ってきた情報によると、この読売やNHKに対して、首相官邸からリークがあったのだという。首相官邸の主は言うまでもなく菅義偉首相。9月にあった自民党総裁選の前に繰り広げられた党内暗闘を制して権力の座を手中にし、自ら官房長官として仕えた安倍前首相の政治を全面的に引き継ぐと公言した首相である。

辞任記者会見を終え、会場をあとにする安倍晋三首相。左は菅義偉官房長官=2020年8月28日、首相官邸

 その首相を主にした官邸が、前首相を一気に落とし込むブラックニュースを、それまで安倍政治にほとんど忠実に従っていた新聞界と放送界の両雄に「嬉々として」流した――。

 いま、「嬉々として」とあえてカギカッコをつけたのは、この様態は私が推測した部分であり、実際には「嬉々として」だったのか「冷静に」だったのかはわからないからだ。むしろ、菅政権の性格から推してみると「冷静に」とか「冷酷に」とかと形容する方が正確かもしれない。

菅首相は何を考えているのか

 振り返ると7年8か月の第2次安倍政権の間、日本の政治状況は「安倍一強」体制と言われ続けてきた。その体制が崩れ、体制を支えてきた官房長官の菅氏が後継首相となってほぼ2か月後にこのニュースが流れた。しかも、ニュースの流れ方が尋常ではない。官邸が検察の動きを止めるどころか自らささやくことまでやっている。

 読売新聞とNHKのニュースが流れた朝、自民党内にこのような見方が広がり、官邸や検察の思惑をめぐって様々な憶測が飛び交った。情報が混乱する中で、議員たちの最大関心事は次の2点に絞られた。

 まず、検察はどこまで捜査を進めるつもりなのか、という点。

 そして、二つ目に菅官邸がニュースを流した狙いはどこにあるのか。さらに端的に言えば、菅首相は何を考えているのか、という点である。

 二つ目の点から先に考えてみよう。最初に思い描いていただきたいのは、菅義偉氏が首相になった経緯、暗闘の構造である。

 私は日本人ジャーナリストとして初めて、安倍前首相が辞任表明する1週間前の8月21日の論座(『ポスト安倍は「麻生」か「菅」か/安倍vs二階の攻防激化~安倍内閣総辞職の可能性強まる。「佐藤栄作」越えの24日以降か』)で内閣総辞職の予測ニュースを報じ、その後同29日の論座(『「安倍・麻生」vs「二階・菅」 国家権力を私物化する総裁選の行方』)と併せて、「菅・二階」VS「安倍・麻生」という暗闘の構造をレポートした。

 つまり、安倍後継を決めるにあたって、当時の菅官房長官を立てる二階俊博自民党幹事長と、麻生太郎財務相を後継としたい安倍首相との暗闘の構造のことである。

 この構造を思い描いた時、誰しもが疑問に思う点がひとつだけある。内閣官房長官は首相のパートナーとして内閣を支え続けてきた「縁の下の力持ち」。首相とは誰にも増して同志的なつながりを持っているはずなのに、なぜ対立構造の中に位置することになってしまったのか、ということだ。

 同じような疑問は官房長官時代の菅首相の頭にも去来したにちがいない。菅氏にとってみれば、安倍内閣や安倍個人の醜い不祥事、疑惑をかばい続け、毎日午前、午後の記者会見でも弾除けの役を担ってきた。

辞任会見に臨む安倍晋三首相(手前)。左端は菅義偉官房長官=2020年8月28日、首相官邸

 しかし、それにもかかわらず、後継首相を考える際に安倍氏が推したのはまず岸田文雄自民党政調会長、そして菅氏とは折り合いの悪い麻生氏だった。あくまで菅氏自身は外され続けた。

 この疑問の果てに「菅・二階」VS「安倍・麻生」という暗闘の構造が出来上がった。そして、この構造の特徴は8月29日の論座レポートでも詳述したが、4者のうち誰一人として安閑としていられる人間は存在しないという点である。

「安倍再登板」への警戒感

 二階幹事長と菅首相とは、それぞれの地元、和歌山と横浜にIRを誘致しているという点で共通している。

 そのIRをめぐる汚職事件で秋元司衆院議員が逮捕、起訴され、さらに保釈中に事件の証人を買収しようとした疑いで再逮捕、追起訴されるという前代未聞の事件を起こした。その秋元氏をIR担当の内閣府副大臣に据えた背景には二階、菅両氏の力があったとされている。

 一方、麻生氏には二つほど大きい疑惑がある。ひとつは「忖度道路」として有名になった下関北九州道路の建設問題。この道路建設は財政難のために2008年に完全凍結されたが、下関を地元とする安倍氏、北九州を地元とする麻生氏の下で2019年度に調査が再開された。総工費数1000億円とされるこの道路が本格着工されれば、麻生氏の実家であり自ら社長も務めた麻生セメントを中核とする麻生グループは大きく潤う。

 もうひとつの問題は、北九州沖の響灘で進められている洋上風力発電事業だ。この企業は独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構」(NEDO)から補助金を受けているが、社長が代表を務める政治団体は、麻生氏の資金管理団体「素准会」に対して2017年と18年に計3000万円の寄付をしている。

 そして、安倍氏については言うまでもないが枚挙にいとまがない。森友学園、加計学園、河井元法相夫妻の公職選挙法違反事件と1億5000万円という破格の運動資金の問題、そして今回、公設第一秘書が東京地検特捜部から事情聴取を受けた「桜を見る会」の疑惑。

 安倍氏を筆頭として4人のうち誰一人として安閑としていられる人間はいないはずだ。

 ところが驚くべきことに、菅首相就任後、安閑としている人間がただ一人だけ存在した。安倍前首相である。

清和会の懇親会会場に到着し、安倍晋三前首相にあいさつする菅義偉首相=2020年9月28日、東京都港区

 安倍氏は首相職を辞任する直前、慶應大学病院への検査に何台もの車列をなして押しかけ「体調不良」をアピール、首相辞任の第一の理由として「潰瘍性大腸炎」という持病を挙げた。

 ところが、首相辞任後2か月も経たないうちに体調は戻り、現在活発な活動を続けている。さらに出身母体の自民党内最大派閥である清和政策研究会(清和会=細田派)への復帰にも意欲を示しているとされる。安倍氏が清和会に復帰するということは、まさに最大派閥の会長に収まることを意味する。

 そのことと併せて、安倍氏の周辺からは、来秋の総裁選に安倍氏自身が三度目の登場をするのではないかという期待の声さえ漏れてくる。この事態を前にした時、菅氏は、血色の戻った安倍氏の顔を決して喜びを持っては見られなかっただろう。

 東京地検特捜部が安倍氏の公設第一秘書らを事情聴取した案件は、毎年開催している「桜を見る会」の前夜祭に安倍事務所が5年間で計約900万円を補填していたという問題。

 読売新聞を追いかけた11月25日朝日新聞1面の詳細な記事によると、正確な補填額は916万円。各年の参加者は450-750人規模。安倍氏の地元支援者一人当たりでざっと計算すると2000円から3000円の補填額だ。

 補填は何と言っても補填であることには違いはなく、有権者に同額の供応をしていたことは間違いない。このために公職選挙法や政治資金規正法違反であることは事実だとする見解がある。

 その一方で、「前首相を公選法に問うには金額が小さすぎる」という見解も根強く、最終的には検察は、政治資金規正法に基づく罰金刑を秘書に課して処理を終了させるのではないか、と見る見方が一般的のようだ。

 しかし、最初に提起した問題に戻るが、ここでさらに考えなければならないことは、権力の座に就いた菅義偉氏という個人が一体何を考えているのだろうかという、まさに歴史の不確定要素だ。

 7年8か月の間、不祥事に揺れ続ける政権を盾となって守ってきたにもかかわらず、最後になって最も劣後した地位に追いやられ屈辱をなめさせられた記憶。議員秘書や横浜市議から始めた自分のキャリアに比べ、輝く日本政界のスターたちを親や親族に持つ安倍氏の恵まれた偶然の境遇。

 脳内で働き続ける不確定要素は、今後、刻々と上がってくる検察の捜査情報を前に、アクセルとブレーキのペダルのどちらを踏むべきか決定的な要因となる可能性がある。

安倍政権に伝統や誇りを引き裂かれた検察

 ここで、政界関係者らが強い関心を持つもう一つの問題の方を考えてみよう。つまり、検察はどこまで捜査を進めるつもりなのか、という点である。

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