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三島由紀夫と並び称される右翼・山口二矢、没60年とテロの美化

社会党委員長が公衆の面前で刺殺された「浅沼事件」から60年

石川智也 朝日新聞記者

「日本を赤化から守りたかった」17歳のテロ

 1960年10月12日。東京・日比谷公会堂では、解散総選挙を控え、自民、社会、民社の3党首立会演説会が開かれていた。西尾末広・民社党委員長に続き登壇した浅沼稲次郎(当時61)が演説をはじめて20分ほど、壇上に駆け上がった17歳の山口二矢が浅沼に突進した。隠し持っていた短刀は左脇腹を突き、よろめいた巨体をもう一回襲った。

 山口は兄の影響などから、赤尾敏が総裁を務める大日本愛国党に入党、その反共思想に染まったが、より行動者たらんとして同党を脱退した矢先だった。浅沼は近くの病院へ緊急搬送されたが即死状態だった。現行犯逮捕された山口は「日本を赤化から守りたかった」などと供述。3週間後、警視庁から東京少年鑑別所に移送されたその晩に、「七生報国 天皇陛下万才」との言葉を残して首つり自殺した。

 この年、世情は混沌としていた。日米安保条約改定をめぐり左右の政治対立が激化。5月にデモ隊が囲む国会で条約は強行採決された。警官隊との衝突で東大生・樺美智子が死亡した。10年後の70年安保時よりもはるかに「革命前夜」を思わせる、騒然とした世だった。

 事件は多くの人間を触発し、大江健三郎はわずか3カ月後に山口をモデルに傑作『セヴンティーン』を発表する。

拡大浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件に抗議する集会の後、遺影を先頭に都心をすすむ労組員らのデモ行進=1960年10月13日

 左右対立激しい党内を実直さと不器用さでかろうじてまとめていた浅沼の死は、その後の内部抗争や党の低迷の遠因になったとも言われるが、事件の戦後政治への影響の検証は簡単ではない。翌月の総選挙は、弔い合戦に挑んだ社会党に対し、「所得倍増」を掲げる池田勇人率いる自民党が、争点を安保からずらすことに成功し大勝した。

 時代はすでに、のちの高度資本主義社会に向けて転換していたのかもしれない。だとしたら、山口の行動の意味は、すなわち浅沼が殺された意味は、どこにあったのか……のちの歴史と時代の変化を見てきた我々が、事件の総括に苦しむ所以だ。

 いずれにせよ、そんな評価をよそに、山口は「義挙」を成し遂げたのみならず潔く自裁した「烈士」、右翼の鑑として祭り上げられていく。

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筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。社会部でメディアや教育、原発など担当した後、特別報道部などを経て2021年4月からオピニオン編集部記者、論座編集部員。慶応義塾大学SFC研究所上席所員、明治大学感染症情報分析センターIDIA客員研究員を経る。著書に『さよなら朝日』(柏書房)、共著に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版)、『住民投票の総て』(「国民投票/住民投票」情報室)等。ツイッターは@Ishikawa_Tomoya

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