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三島由紀夫と並び称される右翼・山口二矢、没60年とテロの美化

社会党委員長が公衆の面前で刺殺された「浅沼事件」から60年

石川智也 朝日新聞記者

 50年目の憂国忌(11月25日)をピークに、記念日ジャーナリズムを習い性とするメディアにはあらためて、三島由紀夫の文学と死の意味を問い直す記事や特集が繚乱した。

 一方で、右翼の間で三島と並び神格化されている少年、山口二矢の没60年の命日(11月2日)は、ニュースにもならなかった。山口の凶刃に倒れた浅沼稲次郎・社会党委員長のことも。

 公衆の面前での衝撃的テロから60年。三島事件とは対照的に浅沼事件を検証する動きはほぼ絶えたが、テロの賛美は続いている。

東京・青山にある山口二矢の墓には、命日の11月2日、右翼関係者ら約60人が訪れた

「日本を赤化から守りたかった」17歳のテロ

 1960年10月12日。東京・日比谷公会堂では、解散総選挙を控え、自民、社会、民社の3党首立会演説会が開かれていた。西尾末広・民社党委員長に続き登壇した浅沼稲次郎(当時61)が演説をはじめて20分ほど、壇上に駆け上がった17歳の山口二矢が浅沼に突進した。隠し持っていた短刀は左脇腹を突き、よろめいた巨体をもう一回襲った。

 山口は兄の影響などから、赤尾敏が総裁を務める大日本愛国党に入党、その反共思想に染まったが、より行動者たらんとして同党を脱退した矢先だった。浅沼は近くの病院へ緊急搬送されたが即死状態だった。現行犯逮捕された山口は「日本を赤化から守りたかった」などと供述。3週間後、警視庁から東京少年鑑別所に移送されたその晩に、「七生報国 天皇陛下万才」との言葉を残して首つり自殺した。

 この年、世情は混沌としていた。日米安保条約改定をめぐり左右の政治対立が激化。5月にデモ隊が囲む国会で条約は強行採決された。警官隊との衝突で東大生・樺美智子が死亡した。10年後の70年安保時よりもはるかに「革命前夜」を思わせる、騒然とした世だった。

 事件は多くの人間を触発し、大江健三郎はわずか3カ月後に山口をモデルに傑作『セヴンティーン』を発表する。

浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件に抗議する集会の後、遺影を先頭に都心をすすむ労組員らのデモ行進=1960年10月13日

 左右対立激しい党内を実直さと不器用さでかろうじてまとめていた浅沼の死は、その後の内部抗争や党の低迷の遠因になったとも言われるが、事件の戦後政治への影響の検証は簡単ではない。翌月の総選挙は、弔い合戦に挑んだ社会党に対し、「所得倍増」を掲げる池田勇人率いる自民党が、争点を安保からずらすことに成功し大勝した。

 時代はすでに、のちの高度資本主義社会に向けて転換していたのかもしれない。だとしたら、山口の行動の意味は、すなわち浅沼が殺された意味は、どこにあったのか……のちの歴史と時代の変化を見てきた我々が、事件の総括に苦しむ所以だ。

 いずれにせよ、そんな評価をよそに、山口は「義挙」を成し遂げたのみならず潔く自裁した「烈士」、右翼の鑑として祭り上げられていく。

「ネットに匿名で不平不満を書き連ねる連中とは違う」

 今年11月2日午前、山口が眠る東京・青山の寺院墓地には、遺族欠席のなか右翼関係者ら約60人が墓参に訪れた。夜には新橋に会場を移し、神式の「山口二矢烈士六十年祭」が催された。

命日の11月2日夜に右翼関係者によって催された「山口二矢烈士六十年祭」=東京・新橋、筆者撮影

 呼びかけ人の一人で、右翼団体代表の河原博史(50)に話を聞いた。

 人を殺めることがよいか悪いかといえば、やってはいけないに決まっています。でも社会が歪んだ時に、意を決した者による決起や行動によって大きく社会が改善の方向に向かったことも事実です。戦後のあの時期、反共・防共を貫くことは、敗戦という大きな傷を日本が克服するために避けて通れないものだった。自分はそう考えます。でも、テロの行為者はすべての責めを逃げ隠れせずに堂々と負わなければならない。その意味で、朝日新聞を襲って名乗りもしない赤報隊のことは、自分は評価したことはない。でも山口烈士は見事に自決し、自己犠牲の精神を発揮した。ネットに匿名で不平不満を書き連ねる卑劣な連中とはまったく違います。

 そのネットでは、いまでも「英雄」「壮挙」と山口を称賛する書き込みが相次ぐ。

 10年前、浅沼が通った早稲田大では、赤い血がにじむシャツや背広など最期を物語る遺品のほか演説原稿など約100点の資料が展示され、なお定まらぬ浅沼の政治的評価を試みる企画展が開かれた。旧社会党関係者の有志による追悼集会も催された。

 しかし今年はコロナ禍もあってか、浅沼の追悼行事は開かれていない。一方で右翼関係者による山口の顕彰が途切れることなく続いていることは、令和の一風景として、ここに銘記しておきたい。

左右の枠を飛び交えた情念の連鎖

 個人の命を超えた大義や絶対性があると信じる右派思想は、人命尊重のリベラリズムとはどこまでも相いれない。しかし、スターリニズムから脱却したはずの新左翼の活動家たちも、暴力とテロを肯定していた事実を無視することはできない。

 戦後右翼を代表する神道家、思想家だった葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、浅沼事件の心理的側面を「非合理なるものへの憧れ」と分析した。そのうえで、右翼テロだけでなくフランス革命や左翼運動にも、「生命を超えた価値」を求める以上は政治信条の根底に同じような暴力性が潜在すると指摘し、政治と暴力の不可分性とテロリズムの本質に目を向けるよう訴えた。

 左翼でも右翼でも、一つの政治的信条というものの根底にはテロへ走る本質の潜在するのを否定しがたいと思う。文明下の政治思想は、公然とテロの正当性を主張することをさける。しかしながら、政治的信条そのものに潜在するテロリズムは、信条と信条との対決が、高度の緊張を呈する時には、忽然としてその姿を現わして来るのだ」(『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』

 葦津の論は山口に同情的すぎる嫌いはあるものの、テロを理解しようと試みるもので、決して擁護しているわけではない。非合理な情念の連鎖・継承が生む、特に日本的なテロの発生メカニズムを見つめることでしかテロを防げない、という主張だ。

 山口が所属していた大日本愛国党の総裁、赤尾敏(「街宣車」というスタイルを発明した、戦後右翼で最も有名な一人)は、戦前は左翼だった。結核療養のため10代後半を過ごした三宅島には浅沼の生家があり交流もあったという奇縁だが、赤尾は自分と同じく戦中に弾圧された浅沼や共産党の宮本顕治のことを「敵ながらあっぱれ」と評価していたとされる。同じく右翼の大物思想家、影山正治(三島の『豊饒の海』第二部『奔馬』のモデル)が小林多喜二の不屈性を認めていたように。

 三島のクーデター未遂も一歩間違えればテロになった可能性があるが、東大全共闘との問答で「私は右だろうが左だろうが暴力を否定したことは一度もない」「諸君の熱情は信じる」と語ったように、新左翼へのシンパシーを持ち続け、一部の武装闘争路線も擁護した。

自決直前、自衛隊員らを前に憲法改正などを訴える三島由紀夫=1970年11月25日、東京・市ケ谷
 赤軍派によるよど号ハイジャック事件で「先を越された」衝撃が三島の決起を促し、その三島事件を「骨のない左翼人への警告」と受け止めた日本赤軍の岡本公三は、日本を出国し国際テロに走ることになる。左右の枠を飛び交えた情念の連鎖が、ここにはある。

 岡本の渡航費用を出した新左翼シンパの故・若松孝二監督は『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008年)の後に『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)を撮った。冒頭シーン、純白のシーツを引き裂き天井に結わえる思い詰めた目の少年は、山口二矢だ。そこに浅沼稲次郎の演説がかぶさり、さらに三島の『憂国』の原稿が映る。

 生前の若松にインタビューする機会があったが、答えは以下だった。

 「左も右もない。革命を目指すでも、天皇親政を目指すでもいい。国や政治の危機を思って行動を起こした人間たちの純粋さを描きたかった。『憂国』だよ。それだけだ」

 誤解を恐れず言えば、若松も、非合理や非日常への跳躍を望む、連鎖する情念への感染者だったのだろうと思う。それは、テロや暴力の肯定と紙一重の危うさもある。

ふたたび季節はめぐり、自信を喪失したこの国で

 山口二矢はテロに及ぶ前、天皇への忠義と無私を説く谷口雅春の著作を読んで迷いを振り切ったというが、その谷口が創始した新宗教「生長の家」の信徒だった鈴木邦男(民族派団体「一水会」顧問)も、東アジア反日武装戦線の連続企業爆破事件(1974~75年)に「先を越された」という思いから、右翼武闘派としての活動を本格化した。さらに言えば、市ケ谷の陸自総監部で三島とともに割腹自殺した森田必勝は中高時代、浅沼稲次郎の熱心な支持者で、山口を「暴漢」と非難していた。浅沼の母校の早稲田に進んだ森田を右翼運動にオルグしたのは、二つ年上の鈴木だった。

 山口と同年生まれで「その背中をずっと追ってきた」という鈴木は、25歳で逝った森田へのやましさもあり、かつては世界革命や聖なる天皇という個人の生命を超える絶対性を信じていたという。しかし、自分の命の一段上に他人の命を置くという考えに傾き、必然的にテロを完全に否定するようになった。意見の異なる者との対話を担保する言論の自由に、いまでは至上に近い価値を見いだしている。山口の墓参にも参加していない。

 葦津珍彦も、テロ防止に有効なのは、啓蒙よりも、自由討議によって政治的信条を異にするもの同士が交流し政治的不信を解消し合うことだと説いている。そして、人間の本性にある非合理への憧憬や冒険主義的性向を認めたうえで、それを馴致する術を学ばせることこそ必要だとした。理性の限界を見る右派思想家らしい見解だが、本質を突いている。

 それならいま、情念の連鎖は断ち切られたと言えるのだろうか。

 赤軍派残党やセクトの先鋭化で新左翼運動は大衆の支持を失い、日本はその後、60年安保時にすでに萌芽のあった「経済の季節」へ完全移行した。しかしふたたび季節はめぐり、自信を喪失したこの国で、政治的ロマン主義にかぶれ改憲や日本回帰を訴えた首相が7年8カ月もの長期政権を維持することになった。

 それだけではない。生活保守主義を小市民的とあざけり、熱い「政治の季節」を懐古主義的に振り返っているのは、左派の「歴戦の勇士」たちも同様ではないか。(今年公開され話題となった映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』についてはあえて触れまい)

 三島が焦がれた青年将校の決起が続いた1930年代と同様の議会不信、社会集団間の断絶、対話や議論の拒絶どころか忖度と自主規制による言論状況の閉塞……というこの国の現況をみれば、非合理な力に駆られた暴力とテロが完全に過去のものになったと断言することなど、できはしないのではないか。

 山口が闘った共産主義の理想は冷戦終結とともに潰えたかもしれないが、1960年から決して変わっていないものもある。三島が唾棄し全共闘も欺瞞を突いた戦後民主主義や平和主義が、言うとおりの「空っぽ」なものだったかどうかはわからない。しかし少なくとも、彼らの共通の敵だったはずの「対米従属」は、まったく過去のものになってはいない。