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いつの日かジャスミンが香る故郷シリアへ 人道支援をしながら夢みるものは… 

アフガニスタンへの人道支援に携わるガムラ・リファイさんのシリアへの思い

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 「緊急事態宣言」が解除になって間もない5月、原稿執筆の気分転換にと近所を散歩していると、爽やかな香りがふと鼻をかすめた。立ち止まった近所の民家の庭から、ジャスミンの花が顔をのぞかせている。

 移動もままならない中で、花たちはいつも、ひと時の安らぎをくれる存在だった。そしてなぜか、この香りが懐かしさを誘う。ふと脳裏に浮かんだのは、戦争が始まる前に訪れた、夏のシリアの風景だった。

ジャスミンの香りでいっぱいのシリアの夏

 シリア出身のガムラ・リファイさんはこう語る。

 「私の生まれ育った町、ホムスは夏にはどこを歩いていてもジャスミンの香りでいっぱいでした。この香りに触れると、子どもの頃遊んだ場所や、私の人生の全てが思い返されるんです」

 今はシリアを離れ、ブルガリアで暮らしている両親の家でも、バルコニーでささやかながらジャスミンを育てているという。「夏といえば日本だと、セミの声ですよね。私たちのとっては、この花の香りなんです」と目を細めた。

ガムラ・リファイさん=JVCのオフィスで

JVCでアフガニスタンの海外事業を担当

 ガムラさんは現在、認定NPO法人「日本国際ボランティアセンター(JVC)」の職員として海外事業を担当し、主にアフガニスタンとやりとりをしている。

 JVCは、アフガニスタン事務所が現地法人化した団体「Your Voice Organization(YVO)」と連携し、地域教育や平和構築を行ってきた。活動拠点でもある東部ナンガルハル州ジャララバードは、昨年12月に中村哲さんが銃撃され亡くなった地でもあり、今でも襲撃事件などが絶えない。

 「治安が安定しないため、活動地を直接見に行くことができない難しさがあります。それでも、YVOのメンバーとは、気持ちが通じ合うことがあるんです。アフガニスタンも、殺している側、殺されている側、両者がアフガニスタンの人で、多くの若者が亡くなっています。政治も治安も安定せず、同じ国の人が被害者にも加害者にもなっていく複雑さは、シリアも同じなんです」

 ガムラさん自身は、シリア政府の強硬な姿勢にはっきりと反対してきていた。それでも、反政府側が政府の側につく人々の命を奪うことは望まないという。暴力の連鎖を断ち切りたいという思いは、アフガニスタンの現状と向き合ってきたYVOのスタッフたちとも重なる。

二つの国の文化が混ざり合った家庭で育つ

 ガムラさんの父と母は共に医師で、留学先のブルガリアで出会い結婚。その後、父の故郷であったシリア東部の街、ホムスに戻り、ガムラさんは長女として生まれた。母はインドの出身で、結婚を機にヒンドゥー教からイスラム教に改宗した。家庭内では二つの国、二つの家庭の文化が常に混ざり合っていたという。

 「母はインド南部出身で、ベジタリアン料理をよく作ってくれたんです。ところが父は肉がないとお腹いっぱいにならない。父がいるときはチキンカレーやマトンカレーを作り、父がいないとベジタリアンカレー。シリア料理は慣れているけれど、母のとっても辛いインド料理ももちろん大好きでした」

 ガムラさん自身はほとんどシリアの文化の中で育ってきたものの、母の振る舞いを自然に覚えている自分に気が付くこともあった。

 「母は礼儀を重んじる文化の中で育ったので、年上の男性が部屋に入ってくると、みんなさっと立たなければならないんですよね。母がそう教えてくれたから、おじいちゃんが部屋に入ってくると反射的に私たちも立ってしまう。そんな私たちに、周りが“なんで立つの?”と驚く、なんてこともありました」

近所の庭先で見つけたジャスミン。ホムスも夏には、この香でいっぱいになるという

アニメで見たオスカルに憧れて

 最初に日本に興味を持ったきっかけはアニメだった。

 シリアでは「キャプテン翼(シリアでは「キャプテン・マジッド」として知られる)」から「ナルト」「ポケモン」など、日本のアニメは幅広く人気を集めてきた。ガムラさんのお気に入りは「ベルサイユのばら」。好きなキャラクターは、男装し、階級社会の中で翻弄されながらも芯の強さを貫くオスカルだった。

 「私は子どもの頃からずっと、オスカルのようになりたかったんです。シリアでは、子どもは男がいいという風習が根強く残っていて、女が生まれると“仕方ない”といわれるんです。私が13歳になったとき弟が生まれたのですが、それまで父は“男の子がいなくてかわいそう”と言われ続けてきました」。弟が生まれるまで、父に「もう一人、妻をもらえば?」と進言してくる人までいたという。

 「私は何でもできるのにどうして男の子がいいの?といつも疑問でした。そして弟のアーメルが生まれると、父は周囲に“アブ・アーメル(アーメルのお父さん)”と呼ばれるんですよね。私だって父の子どもなのに、私の名前は呼ばれない。そんなことが重なって、男に負けない、という気持ちが強かったんですよ。だからオスカルは憧れだったんです」

 ドレスも着ず、メイクにも興味を示さなかったというガムラさん。それは、「女の子は弱い」「女の子らしく」という社会からの目線への反発だった。「この格差がある限り、女性はもちろん、男性も幸せではないと思うんです。お化粧が好きな男の子がいたっていいし、自分が好きなものを好きでいい」

 子どもの頃はスクリュードライバーを持ち歩き、何でも直したり組み立てたりしたがっていたという。新しいベッドが家に来ると、「私が組み立てる!」と率先して手伝った。「そういう女の子がいたっていいと思うんです。“女の子がこれに興味を持ってはダメ”、“そんな振る舞い男の子みたい”、という周りの見方を変えていきたかったんだと思います」

科学を学ぶため日本へ

 ガムラさんは子どもの頃から科学が好きで、海外への留学を考えるようになった。「アメリカ政府はアラブ、イスラムを嫌っているイメージがあったし、多くの人はドイツに行く。他に行き先はないかと考えていた時、アジアなら科学の最先端の日本だ、と思ったんです」

 ホムスの大学を卒業後、2011年に新潟大学大学院、自然科学研究科へと進んだ。「もともと、故郷ではつまらないくらい穏やかな日常を送っていて、だから早く出たい、もっと世界を見たいと思っていたんです」とガムラさんは振り返る。

 だが、その「つまらないくらい穏やかな日常」はその後、音を立てて崩れていくことになる。

故郷シリアが崩壊、鬱状態に

 2011年春、ガムラさんが来日したのとほぼ同時期に、シリアでは長年の圧政に耐え兼ねた人々が自由を求め路上へと繰り出し、大規模なデモが起きるようになる。ところがシリア政府は、その声に真摯(しんし)に耳を傾けるのではなく、丸腰の市民に武器を向けた。

 ホムスも激戦地となり、郊外の街ホウラでは2012年5月、死者108人、負傷者300人にのぼる虐殺も起きてしまった。故郷の街をはじめ、シリアは日に日に様変わりしていった。

 「なぜ私は日本にいるのだろう、という思いが強まる一方でした。友達と楽しい時間を過ごしても、家に帰ると、“私が楽しい時間を過ごしている間にも誰かが死んでいたんじゃないか”という罪悪感がわいてくるんです」

 とにかく何かしなければと思い、反政府派のメディアセンターで、アラビア語を英語に訳すサポートをしていたこともあった。けれども状況が変わっていくにつれ反政府派も分裂していき、その活動からも距離を置くようになった。

シリアの隣国、ヨルダンのザータリ難民キャンプ。今でもシリアでは、人口の半数近くが国内外で避難生活を送っているといわれている(2016年1月撮影)

 自分にできることなど何もないのではと、大学の研究室に行くのも苦痛になり、次第に鬱状態で家から出られなくなっていった。

 「2014年頃は、ベッドから起きるのさえ辛いと感じていました。起きようとしても体が痛むんです。出来ることといえば、寮の寝室とキッチンを往復するくらい。その頃、おばあちゃんが亡くなったのですが、危篤になったとき、平時ならそばに行きますよね。でも、状況は安定していなかったし、私自身SNSに政府に反対する書き込みもしていたので、戻れなかったんです」。無力感で、精神状態はどん底だった。

転機となったイラクのアリーさんとの出会い

 その後、両親はブルガリアに難民として逃れ、幸い留学経験から有効な免許もあったため、仕事に就けることになった。家族がいるブルガリアまで渡航したことが、少しずつ気持ちが落ち着く契機となった。同じ大学に留学していたパナマ出身のパートナーと付き合い始めたのもこの頃だ。

 「その1年ほどは、理由も分からないまま涙が溢れることがあったんです。安心したからかもしれないですね。心の中にあるものが全部、溢れ出てきたんですよ」

 今の職場であるJVCに出会ったのは、アラビア語通訳のボランティアとして活動に携わったことがきっかけだった。JVCのイラクのパートナー団体「インサーン」の代表であるアリーさんが来日し、新潟で行ったワークショップの通訳としてそこに参加したのだ。

 アリーさんは乗り合いタクシーで移動中、偽の検問所で襲撃され、同乗者たちが目の前で殺害された経験があった。現地では民族の違いをこえ、トラウマケアの活動に注力している。誰かが何かしないとこの国は立ち直らない、自分の国を見捨てることはできないとアリーさんは強く語っていた。

 「その頃は、シリアのことを考えることさえ嫌になっていたんです。でも、故郷を見捨てようとしても、見捨てられない、切り離せない自分がいました。自分が学んでいた分野では何も貢献できないと思っていたけれど、アリーさんの活動に触れ、別のやり方があるのかもしれないと思ったんです」

「あなたは人権のある人間」。夫の言葉に涙

 アリーさんと出会った後の2017年に結婚。それを機にパートナーを紹介しようと、ブルガリアにいる両親の元を再度訪問することになった。

 「私は夫に“恐い”と伝えたんです。もしもシリアに送還されたらどうしようと、と。すると夫は“何を言ってるんだい?あなたは人間なんだから人権があるんだ。送還されそうになったら、難民になる権利だってある。誰も不当に帰すことなんてできない”と伝えてくれたんです」

 夫の「あなたは人権のある人間なんだ」という言葉に、涙が止まらなくなった。

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