1.政権交代勢力結集の第一幕「細川政権」から第二幕「民主党政権」
議会制民主主義を採用している国々の政党は、政権を目指して競い合い切磋琢磨する。
ところが日本では、独立後の1955年に保守系が自由民主党、革新系が日本社会党に統一し、保革での政権を目指した競争が期待されたが、1993年に非自民の細川連立政権が誕生するまで自民党政権が38年もの間続いた。
これは野党第一党の社会党が、選挙区に過半数を超える候補者を擁立せず、政権を取る意志を示さなかったからである。野党第1党が政権を担う覚悟がない以上、自民党か長年政権党であり続けられたのは当然の帰結である。
ところが政官業の癒着構造の打破、政権交代ある政治を創造すべく、細川護熙元熊本県知事らが日本新党、自民党の小沢一郎議員らが新生党、武村正義議員らが新党さきがけを結成し、1993年衆院総選挙に臨んだ。その結果、非自民の8党派による細川連立政権が誕生した。これによって自民党に代わる政権交代勢力結集の第一幕が開いた。
公約通りに細川政権は1994年、政治改革関連4法を成立させ、衆院選挙に小選挙区比例代表制を導入した。各選挙区で1人しか当選できない小選挙区制度の採用は、バラバラだった野党を大きな固まりへと促し、1994年に新進党結成、1998年に民主党結成、2003年に民主党と自由党の合併、2009年総選挙で民主党政権の誕生を導いた。8党派から民主党単独で自民党の議席を凌駕するという政権交代勢力結集の第二幕へとつながった。
2.第一幕「細川政権」と第二幕「民主党政権」の共通点と相違点
いわゆる「55年体制」確立後から今日まで、自民党以外の政党が中心になって政権を担ったことは、1993年の細川政権と2009年の民主党政権の2度しかない。2つの政権は「非自民」という点で共通だが、「最大与党の議席数」で大きな相違点があった。
細川政権の最大与党・社会党は、衆院で70議席しかなく、最大野党の自民党の223議席に遠く及ばなかった。一方、民主党政権の最大与党・民主党は、308議席を擁し、野に下った自民党の119議席を大きく上回り、二大政党の一翼であることを名実ともに示した。

政権交代を決めた衆院選で、当選者の名前に花をつける民主党の鳩山由紀夫代表と小沢一郎代表代行。右端が菅直人代表代行=2009年8月30日、東京都港区
つまり、政権交代を果たしたという意味で、細川政権も民主党政権も戦後政治に大きな足跡を残した。ただし、前者には自民党に対抗できる二大政党の一翼に足る政党が存在しなかった。後者の民主党は、衆院の過半数を制し、二大政党の一翼の地位を確立した。
二大政党の党首が交互に首相となることを立憲政治の当然のあり方とする「憲政の常道」の視点からすると、細川政権はそれに当てはまらなかったが、民主党政権は「憲政の常道」を起こしたと言える。