『粛清裁判』『国葬』『アウステルリッツ』~「群衆3部作」が問う現代の民主主義
セルゲイ・ロズニツァのドキュメンタリー映画を観て
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長
12月3日のNHK「ニュースウオッチ9」で、ウクライナ出身の映画監督セルゲイ・ロズニツァ氏の「群衆3部作」が紹介されたので、東京・渋谷のイメージ・フォーラムに観に行った。
これらのドキュメンタリー映画が数々の国際映画祭に出品され、極めて高い評価を得ていることに驚いた。質の高い鑑賞眼と映画批評が生きていることの証である。
ロズニツァ氏はウクライナ国立工科大学の学生時代、第2外国語として日本語を学んだ。日本文学や絵画に関心があり、一時期は日本語の翻訳の仕事もしていた。
映画のプログラムに掲載された「公式インタビュー」では、ロズニツァ氏は、「私の映画は世界のどの国よりも日本で理解され受け入れられると信じています。(略)私の映画がどうなるか様子を見ることにします」と語っている。
私はロズニツァ氏の仕事に敬意を表し、きちんとした批評をここに書き残しておきたいと思う。
巨大惨劇を自ら引き起こしていく「群衆」
「3部作」を構成する映画の歴史的時間を追って順に紹介しよう。
まずは1930年のソ連。スターリンの最初の粛清劇を当時のフィルムから追った『粛清裁判』。スターリンにとって最初に邪魔になった技師階級を抑圧するために架空の事件を捏造、9人の技師を裁判にかけ、6人に対して銃殺刑、3人に対して10年の自由剥奪という判決を下した。
ところが、これらは事前にシナリオが練られた「茶番劇」で、裁判後、銃殺刑は全員懲役10年か収容所への収容に減刑された。全員無実であることはわかり切った話なので、法廷で自白の演技をすることを交換条件に減刑処分となった。
しかし、この内実を知らない群衆は連日法廷に詰めかけ、夜になると処刑を求めるデモを起こして、「銃殺刑」の判決が読み上げられると歓呼の声を法廷中に轟き渡らせた。
その後、スターリンの本格的な大粛清は1934年のセルゲイ・キーロフ暗殺を起点にソ連全土に展開された。古参ボリシェヴィキを処刑台に送るためにスターリンは本人の「自白」を重視した。この自白を得るために活用したのが、秘密警察の活動を駆使して集めた醜聞情報の集積だった。
醜聞公開の脅しが効かなければ拷問が待っていた。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』によれば、あらゆる拷問が試されたが、最も効率的で簡単な自白強要方法は男性器の踏み潰しだった。目を凝視しながらゆっくりと踏み潰していけば、どんな「自白」を獲得するにも15秒とかからなかった。
処刑は有名なボリシェヴィキから、それに連なる中級、下級の党員に及び、さらに処刑された党員の遺族や友人、同僚、部下を巻き込んだ。粛清官僚機構の活動は止まらず、ついには処刑された党員の家に出入りしていたクリーニング店の店員にまで及んだ。
粛清の官僚機構を内部から観察していたソ連秘密警察のヨーロッパ駐在諜報機関長、ワルター・クリヴィツキーの著書『スターリン時代』によると、スターリンは1935年から12歳以上の子どもにも死刑を適用、数10万人の子どもたちが拷問の末に強制収容所に送られ、処刑された。
ロズニツァ氏がアーカイヴから発掘し、大粛清の最初の動きとなった1930年の『粛清裁判』は、その後数百万人から数千万人の犠牲者を出したとされる巨大惨劇の第一歩を記録した貴重なフィルムだ。
ロズニツァ氏は記録フィルムを忠実に編集し、裁判の合間に、「茶番劇」という真実の姿を知らない「群衆」が無実の被告たちの極刑を求めて熱狂的なデモ行進をする様子を差し挟んでいる。
「群衆」は「処刑台に送れ」という横断幕を掲げて夜の街を行進し、見世物ショーのように大ホールで開かれた裁判の傍聴に詰めかけ、「銃殺刑。上告審なし」という判決が下されると熱狂の声を挙げた。
歴史の行方を知らないとはいえ、自分たちの巨大惨劇を自ら引き起こしていくこの「群衆」とは何者なのか。