『粛清裁判』『国葬』『アウステルリッツ』~「群衆3部作」が問う現代の民主主義
セルゲイ・ロズニツァのドキュメンタリー映画を観て
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』
ここで想起しなければならないのは、ヒトラー体制のドイツやスターリン体制のソビエトを分析して、両体制に共通する「全体主義」の姿を浮かび上がらせたハンナ・アーレントの著書『全体主義の起原』だ。
ロズニツァ氏の言う「群衆」はアーレントの言う「大衆」「モブ」に通じる。自らがユダヤ人であるアーレントは、ナチスが政権を取るまでに「反ユダヤ主義」を大衆操作の道具としていかに活用したかについて分析する。
アーレントの言う「大衆」は、個人主義や利己主義が世間的に敗残し、「自分はいつでもどこでも取り替えがきく」という負け犬的な感情に支配されると同時に、またその感情と裏腹に「世界観的な問題」や「歴史の幾時代をも占め幾千年の後までも跡の消えることのないような使命に選ばれて携わるという大いなる幸福」に酔い痴れたい願望に浸された人間群である。
そのようないわば「没我」的状態に陥ったアトム的状態の大衆がユダヤ人や外国人を排撃し、その排撃自体の中にドイツ人の「大いなる幸福」を味わっていく。

引き倒され、鼻の欠けたスターリンの銅像と彼が粛正した人々のオブジェ=モスクワ市内で
余談になるが、経済的苦境などからアトム的状態に陥った現代日本の大衆の前に「反韓」や「反中」を掲げて煽り続ける政権周辺の動きは、アーレントの言う戦前ドイツの大衆操作による全体主義形成と同一のものだろう。
アーレントは、全体主義について、ナチス支配とともにスターリン治下のボリシェヴィズムを名指しする。スターリンは、ヒトラーとちがって、「絶滅」政策によって人間の連帯の芽を摘み、アトム状態の大衆を人為的に作り出していく。
アーレントの言う全体主義は、静的な国家体制ではなく、動的な運動である。組織や人々の中で常に粛清のテロルが動いていなければその推進力を失って倒れてしまう。このためテロルの対象は恣意的に変化し、恐怖の意識と支配の構造は組織、人々の全体に、それこそ隈なく行きわたる。
アーレントの表現を借りれば、その粛清のテロルは、Aと言えばBと言うことを求める。さらに、Bと言えばCを言わなければならない。そして、この過酷な論理性の連鎖は鉄の法則をもって最後の宿命的なZを断言するに至る。
次元は異なるが、現在の日本の政治状況にも同じ論理が働いている。菅義偉政権は日本学術会議への違法人事介入を実行しながら「違法ではない」(A)と言い張っている。日本国民が、無関心や諦念のあげくこの「A」の無法を認めてしまえば、政権は次に「B」の無法、「C」の無法を認めるよう迫ってくる。そして、その時に後悔してももう遅い。そのすぐ先には「最後の宿命的なZ」が回避しようもなく待ち構えているだろう。