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関係が近いほど腹が立つ。家族も、そして日韓も

藏重優姫 韓国舞踊講師、仁荷工業専門大学語学教養学科助教授

 人はいろんな癖を持っている。その癖に気づいていても気づいていなくとも、その癖はその人の人生を何かしら物語っているのかもしれない。

 私は、文化には「目に見える文化」と「目に見えない文化」があるという考え方を知った時から、物事の見方が180度くらい変わった。それ以降、人から何気なく発せられる「文化」という言葉を聞く度、「彼女が言っているのは、可視的文化のことだな」とか、「この場合は、目に見えない文化の事を問題にしているな」とか一人で考え分析するのが面白く、ほぼ癖になっている。

 目に見えない文化とは、簡単に言うと、考え方や行動パターンのことだ。考え「方」や行動「パターン」は、その人の置かれた環境で、長い年月をかけて形成されてきたものであるから、その人個人の文化だと考えるのである。

 こう考えると、人間一人ひとりに個々の文化(考え方・行動パターン)が存在することになり、当然、私と私の弟でも文化は異なるということになる。同じ親の元で育っても、私と弟を取り巻く人間関係などの環境は当然異なっていたわけで、従って当然異なる文化を形成してきたのである。

 永田町文化、教師文化、学校文化、などという言葉を聞いたことがあると思う。永田町独特の行動パターンだったり(つまりそれは特有の考え方から派生しているのだが)、教師には教師特有の考え方や行動パターンがあったりすると言えば、目に見えない文化というものもピンと来るのではないだろうか。

ann131313/Shutterstock.com

「文化が違うからね」で納得

 さて、皆さんは、人間関係における考え方の違いやちょっとした摩擦が生じてしまった時、「文化が違うからね」という言葉一つで、なんか納得したり落ち着いたりすることはありませんか。

 私はあるんです。そのように考えると、ちょっと感情的にならなくて良かったり、少し俯瞰的に眺めたりできるんです。その事象や問題に、一瞬で距離を取り、客観的に捉えようとする。

 私は日韓の間に生まれたせいか、「文化が違うからね~。」の一言は、日々発生する日韓問題に直面した時、感情的にならないように、自分自身や時には他人に対し牽制を促すツールとなっているようです。

 つまり、このような行動パターンは私の癖であり、私の文化の一部のようです(『日本人よ、韓国人よ、在日コリアンよ、私は私だ!』参照)。

 このように「文化が違うから、考え方も行動パターンも違って当然さ」と考えるのは、実にクールではありますが、感情が上回ると、いつもいつもこのように冷静に考えられる訳ではありませんね。

 いや、再度断っておきますが、大概の事はクールにこなしているんですよ、私。そのつもりでなんです。

 でも、それが自分の夫であったり、子どもであったり、親であったりした場合は、ややこしくなります。口喧嘩にまで及ぶものなら、その時は感情だけで口走っているのでしょう。文化が違うからね~と相手を認めたり、受け入れたりする余裕はありません。癖のような私のクールな文化も感情という変数によってまた違った行動パターンに枝分かれしていくようです。

 関係が近ければ近いほど、この現象は起こりやすくなります。

Zvereva Yana/Shutterstock.com

自分と相手は同じだという錯覚

 何が言いたいか、そろそろバレてますか。そう、日韓関係もこれ然りです。

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