8歳まで「無国籍」 フィリピンと日本、二つのルーツと共に生きて
子どもたちと共に気づいた「自分の声を持つこと」の大切さ
安田菜津紀 フォトジャーナリスト
まずは名前を正しく呼ぶことから
南小学校の生徒たちは、半数ほどが外国にルーツを持つ。毎年、ダンス教室の年度初めは参加する子どもたちの名前を正しく呼ぶことからはじまる。
うまく読めなかったり、発音が違ったりすると、「それ違う!」「やり直し!」と子どもたちに教えてもらう。そんな彼ら彼女たちには、多様な子どもたちがいることがすでに意識のベースになっていると三木さんは語る。それは外国ルーツの子どもたちに留まらない。
例えば初年度、場面緘黙(家などではごく普通に話すことができても、例えば学校など「特定の状況」では声を出して話すことができない症状)の子どもが参加していたことがあった。最初、出席簿でその子の名前を呼んでも返事がなかったため、三木さんは欠席かと思っていた。すると周りの子どもたちが、「いますよ!」と教えてくれたという。それも、小さな声でその子自身が「はい」と返事をするまで待っていたのだ。
「その子自身の意思とか決定を、ごく自然であたりまえのものとして大事にしているんですよね。普段から安心して過ごせる環境でなければ、ああいった関係性は築けないと思うんです」

南小学校で行われた、子どもたちのステージ発表(三木さん提供)
フィリピンの農村から日本へ
三木さん自身、日本とフィリピン、二つのルーツを持ちながら大阪市内の被差別部落で生まれ育った。

母のメルバさんが日本に来る前、フィリピンでの一枚。手前の一番右がメルバさん(三木さん提供)
母のメルバさんは、フィリピンの首都マニラから車で10時間以上離れたルソン島の北部、海と山に囲まれた農村で育った。8人きょうだいで、1匹の魚を10人で分けて食べるほど、家庭は経済的には苦しかった。きょうだいたちはイタリアや香港、世界各地に出稼ぎに行き、家族を支えていた。メルバさん自身も1986年に日本へと渡った。
三木さんが生まれた時、メルバさんは在留資格を失ったオーバーステイの状態で、父親は別の女性と婚姻関係にあった。こうした状況にある女性たちは、オーバーステイの発覚を恐れ、子どもの出生を届け出ないことがある。
当時の国籍法では、子どもの出生後に父親が認知するだけでは、日本国籍の取得はできず、メルバさんと父親が婚姻したうえで認知する必要があった。三木さんが8歳の時に、メルバさんが父親と婚姻するまで、三木さんは「無国籍」の状態で育つことになる。つまりその間、公的な書類上、三木さんは存在しないことになってしまうのだ。
家の中と外では別の顔

父、母と祝った、2歳のお誕生日(三木さん提供)
幼い頃、近所のショッピングモールのキッズスペースで遊んでいたときのことだった。他の子どもと遊ぼうと近づいていくと、突然相手の父親が怒り出してしまった。
「その時に母は、私の話を聴くのではなくて、とにかく“すみません、すみません”とひたすら謝って、逃げるようにその場を離れていきました。家にいるときは、私が“ねえねえ”って話しかけると、絶対に手を止めて聴いてくれるのに、この時は、どうして私のこと見てくれてないだろう、私がSOSを出している時に、どうしてあの人に“ごめんなさい”って言うのが先だったんだろう、って悲しくなったんです」
三木さんを乗せていた自転車で、車に接触される事故に遭ったときも、メルバさんは「すみません、すみません」と繰り返し、助けも呼ばずその場から去った。急いで家に帰ってから初めて、「大丈夫?痛くない?」と三木さんの体を頭のてっぺんから順番に触って確かめた。
「ああいった時に警察を呼ばれて大事になると、(オーバーステイが発覚して)当たり前に家族として過ごす日々が終わるって分かっていたんですよね。そうしたとき、子どもである私の気持ちはどうしても後回しになってしまう」
次第に三木さんは、家の外と中でのメルバさんの顔が違うことに気が付いていく。電車を待っている時、見知らぬ男性が「どこの国から来たん?」「パブで働いてるんちゃうの?」「その時、子どもどないしてんの?」と、三木さんの目の前でずけずけと尋ねてきたこともあった。
「そういう時、母親が嫌な顔したことって一回もないんです。にこにこしている。でも、子どもなりにその笑顔が、作ったものであることは気づいていました。“善良な外国人”であることをアピールしなければならなかったんだと思います。そんなモードの時は、しゃべりかけちゃいけないって思っていました」