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「国際問題」に発展しなかったコザ騒動

「国際問題に発展させ、沖縄人を人間として認めさせる」という青年の叫びは…

阿部 藹 琉球大学客員研究員

 沖縄本島中部の沖縄市。かつて「コザ市」と呼ばれていたこの街のメインストリートに、12月20日まで一台のひっくり返った黒塗りの車両が展示されていた。「POLICE US ARMY」の文字が書かれたこの車は、コザ騒動で群衆によってひっくり返された米軍警察の車を再現したものだ。

コザ騒動で群衆にひっくり返された米軍警察の車が沖縄市のメインストリートに再現・展示された

 今から50年前の12月20日未明、米軍嘉手納基地の門前町だったコザ市で米兵が起こした交通事故をきっかけに、それまでの数限りない米軍関係者による交通事故、犯罪、性暴力、それらの加害者に対する不処罰、事故、人権蹂躙によって沖縄に充満していた人びとの怒りが爆発した。怒った群衆によって米軍関係車両80台以上が焼かれ、一時は群衆が嘉手納基地内にまで入り込んだ。コザ暴動、コザ蜂起とも呼ばれる事件である。

車両とともに、当時の写真も展示されていた。

 ひっくり返った車両はコザ騒動を記憶し、その意味を再度問いかけるために大学生らが企画したパフォーマンスの一部だった。他にもシンポジウムが開催されたり、県内新聞社に特集記事が連載されたりしたほか、テレビでも特集番組が放送されるなど、沖縄ではコザ騒動から50年の節目に改めてこの出来事を考え直す機運が高まっている。

「沖縄どうしたらいいのか。沖縄人、人間じゃないか、馬鹿野郎」

 テレビでコザ騒動の特集が伝えられる時に、必ずと言っていいほど流れる音声がある。当時、ラジオ沖縄の記者だった玉保世英義さんが録音したもので、騒動を知ってコザに駆けつけた玉保世さんの元に20代の男性が駆け寄り、マイクを奪い取って訴えたという声だ。ちょうど今、琉球新報がコザ騒動特集ページで玉保世さんのインタビューを動画で掲載しているのでぜひご覧頂きたいと思う。

 興奮した声で、男性はこう叫ぶ。

沖縄どうしたらいいのか。沖縄人も人間じゃないか、馬鹿野郎。
この沖縄人の涙、わかるか! お前らは。
国際問題に発展させてね、沖縄人を人間として認めさせないといけない。

 コザ騒動から50年を期に流されるこの音声を幾度も耳にするにつれ、一つの問いが私の心を占めるようになった。

 なぜこれほどの規模の「暴動」とも呼ばれる事件が、この青年が言うような「国際問題」に発展しなかったのだろうか、という問いだ。

国際問題に発展しない「無国籍人」

 その問いを考えるためのヒントが、沖縄が憲法体制の埒外に置かれた過程を膨大な資料から明らかにした「沖縄 憲法なき戦後(古関彰一・豊下楢彦著 みすず書房)」にあった。

 そこにはコザ騒動を遡ることさらに15年前の1955年、沖縄の漁師34人がインドに漂流し、領海侵犯としてインド政府によって刑務所に留置された際、日本の領事からは「沖縄の島民なんというのは日本政府の力の及ばぬのだから」と放置され、一方で当時沖縄を統治していたアメリカの領事からは「沖縄は、アメリカ国民ではないのだ」と放置された事件が紹介されていた。

 自国民が漂流した先で領海侵犯として捕らえられれば、通常その政府は外交的保護権を行使してその自国民を保護しようとする。そしてもし相手国が正当な理由なく引き渡しを拒めば国際問題に発展しうる。国際問題は、自国民の保護や相反する利害などを巡って国家と国家が対立することで発生するものだ。

 しかしこの漁師漂流事件では、日本政府もアメリカ政府も沖縄の人を保護すべき自国民として取り扱わず、身柄を巡ってインド政府との国際問題に発展するどころか彼らは放置された。

 この事件からわかるのは、沖縄の人々が日本政府からもアメリカ政府からも保護すべき自国民とみなされず、実質的に「無国籍」の状態であったこと、そして、そのような人びとの叫びは国家間の「国際問題」に発展する術がなく、ただ空にかき消されるという現実だ。

主権の空白地帯

 なぜ沖縄の人びとは「無国籍」状態だったのか。それは米軍統治下の沖縄が “主権の空白地帯”とも言える奇妙な立場に置かれていたためである。

 戦後沖縄の法的地位を決定づけたのは1951年に日本と連合国諸国との間に結ばれたサンフランシスコ平和条約だ。本条約の1条によって日本と連合国諸国との戦争終結と日本の主権回復が定められた一方、本条約の3条によって沖縄を含む南西諸島についてはアメリカ合衆国がその領域の住人に対して行政、立法及び司法上の権力、つまり排他的施政権(統治権)を有することが決定づけられた。

対日講和条約調印式で、講話条約書に署名する首席全権の吉田茂首相ら=1951年9月8日、サンフランシスコ

 一方で、アメリカの全権大使であったジョン・F・ダレスはその講和会議の演説で、日本が沖縄に関する「潜在主権」を有することを確認した。これによって沖縄は、日本が潜在主権を有するも、実質的な施政権(統治権)は米国が有するという二重構造の下に置かれることとなる。

 問題は、日米政府間での協議や国会での議論を経てもこの「潜在主権」なるものが日本政府によって明確に定義づけられることがなく、実質的には死文化していたということだ。この結果、二重構造の一つである「潜在主権」が空洞化し、アメリカの施政権(統治権)だけが沖縄に残された。

 このように名目上のものでしかなかった「潜在主権」だが、アメリカにとっては非常に都合の良いものだった。

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