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金正恩を批判すれば摘発される「ビラ禁止法」で見える韓国の窮地

「表現の自由」制限で北朝鮮が振り向く「夢」は果たして…

市川速水 朝日新聞編集委員

ビラをまけば最長懲役3年、罰金も

 韓国政府が2020年12月22日、「対北朝鮮ビラ禁止法」と呼ばれる南北関係発展法改正案を閣議決定した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領の裁可を経て、早ければ2021年3月から施行されることになる。

北朝鮮の弾道ミサイル発射に抗議するビラ30万枚を大型風船につけて北朝鮮に飛ばそうとする団体=韓国・坡州市、団体提供
 南北境界付近で北朝鮮に向けてビラを散布するなど敵対行為とみなされれば、3年以下の懲役や3000万ウォン(約280万円)以下の罰金が科せられるのが柱だ。

 戦後の韓国の歴史で、軍事・独裁時代を倒し自由を勝ち取った民主勢力が、最も大事にしてきた「表現の自由」を制限するという初の事態に、韓国内は戸惑っている。親政権派と反政権の立場はさらに断絶し、メディア間でも賛否が真っ二つに割れている。

 この事態を招いた経緯を見ると、膠着状態から抜け出せない南北朝鮮関係、2021年早々のアメリカの新政権誕生といった近い未来を前に、ぎりぎりの決断だったようだが、結果として、国際社会には到底理解不能な、常識外れで時代錯誤的な政策にたどりついてしまった。

風船に乗せて北朝鮮域内へ

 韓国や北朝鮮にとっての「ビラ」は、私たちが街で見かけるような「チラシ」の類とは役割が少し違う。

 例えば金正恩(キム・ジョンウン)党委員長の写真に「殺人独裁者」などとタイトルを付け、大量に刷って気球や風船にぶら下げる。風向きを見て空に放ち、北朝鮮域内に落ちて住民が拾う可能性に賭ける。

 北朝鮮内の公式報道では知り得ない北朝鮮の体制の問題点を多くの人に知ってもらい、長期的に北朝鮮の独裁体制の弱体化を狙うものだ。韓国に渡ってきた脱北者の中には、ビラを見て脱北を決意したと話す人たちもいる。

 第2次大戦末期に、米軍が日本本土の上空から落としたビラと狙いは似ている。南北朝鮮は今も朝鮮戦争(1950年勃発)の休戦状態、つまりなお戦時中であり、南北ともビラ作戦を重視してきた。特に北朝鮮は、国外からの情報を遮断しているため、韓国から飛んでくるビラを嫌っている。

北朝鮮・金正恩氏をイラストで批判するビラをくくりつけた風船を飛ばす韓国の脱北者団体=韓国・坡州市

独裁国家か、表現の自由の「最小限の制限」か

 ビラ禁止法への賛否は、世論や言論機関の分断にも火をつけ、従来の保守・民主の対立が広がっただけにも見え、問題の本質がわかりにくくなっている。

 例えば、政権と対立する保守派の東亜日報は、国際社会から批判された韓国政府・与党が「内政干渉だ」と反発したことに対して、次のように激しく批判している。

 人類の普遍的価値であり、韓国憲法が保障した表現の自由を守る問題をめぐって内政、外政の別はありえない。外部の人権弾圧批判に対して、常に「主権侵害」云々(うんぬん)していた北朝鮮・中国のような独裁国家、ひいては過去の韓国軍事政権が掲げた論理と大差ない。(2020年12月22日電子版)

 一方で、与党に近いハンギョレ紙は、北朝鮮との約束に基づく当然の規制であり、むしろ遅きに失したという立場をとる。以下のように。

 この改正法は、軍事境界線一帯の拡声機放送とビラ散布をはじめとするあらゆる敵対行為の中止、その手段の撤廃を約束した2018年4月の「板門店宣言」の法的履行であり、それに2年8カ月かかったということだ。(12月16日電子版より抜粋)

 政府・与党の強行措置には理由がないわけではない。

 南北融和を目指す文政権は、2018年の南北首脳会談で、金正恩氏と、「あらゆる敵対行為の中止」を約束した。しかし、韓国の脱北者を中心とする人権団体などは、民間の立場からビラ散布をやめなかった。

 その結果、北朝鮮は2020年6月、北側の開城(ケソン)工業団地内にある南北共同連絡事務所を爆破し、正恩氏の妹、金与正(キム・ヨジョン)氏が談話で「ビラ散布の妄動に対する謝罪や再発防止の約束」を求めた。それに呼応した、やむをえない法的規制だという理屈だ。

 韓国内での報道によれば、国連の北朝鮮人権報告官が論評の形で「対北朝鮮ビラ散布禁止法は、様々な方面で北朝鮮住民たちに関与しようとする多くの脱北者たちと市民社会団体の活動に、厳格な制限を設けることになる。施行する前に、関連した民主的な機関が適切な手続きによって改正案を検討することを勧告する」と述べた。

 これに対し、韓国統一省は、遺憾の意を表し、法の目的を、南北境界線地域の国民の生命と安全を保護しながらも、表現の自由も保護するために、立法府がこれまでの判例などを考慮して表現の方式を最小限で制限したのだ」と説明した。

 国連側の懸念は、アメリカなどが重視してきたラジオ放送による発信など拡大解釈される危険性があるという点であり、韓国当局の抗弁は、ビラの影響で北朝鮮から偶発的な攻撃があれば、境界線付近の住民の安全が守れないから局所的な制限に過ぎないというものだ。

ねじれのなか、2021年への重苦しい「期待」

 ハンギョレ紙も「米国の政界や人権団体などは、同法は北朝鮮人民に外部情報を提供するための努力を制限し、表現の自由を侵害すると批判するが、誤った情報をもとに誤解しているのだ」と文政権を擁護し、「国際的な場で積極的に法の内容を説明する必要がある」と主張している(12月19日電子版より抜粋)。

 理屈はどうであれ、軍事境界線近くで拡声機やビラで文在寅政権を批判しても許されるが、金正恩氏を批判すれば摘発されるという新たな法律。韓国の徴兵制の最大の仮想敵は昔も今も北朝鮮なのに、だ。

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