西田 亮介(にしだ・りょうすけ) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授
1983年生まれ。慶応義塾大学卒。同大学院政策・メディア研究科後期博士課程単位取得退学。博士(政策・メディア)。専門は情報社会論と公共政策。著書に『ネット選挙』(東洋経済新報社)、『メディアと自民党』(角川新書)、『マーケティング化する民主主義』(イースト新書)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
新旧の性質をもった総合的社会問題であるコロナ禍を読み解くと見えてくるもの
危機が長引くにつれ、市中経済への影響や倒産増加などが生じているとされ、確かに筆者の行動範囲のなかでも、空き店舗や閉店が目立ってきている。インバウンド需要を当て込んでこの間、国策として強力に奨励してきた観光、宿泊などの産業を筆頭に、航空をはじめとする交通、対面を伴うサービス業全般や飲食、また近年これも経営改革が推奨され民間主体が多いことが日本の特徴の一つとされる病院や診療所など、幾つかの産業では顕著な影響が明らかになっている。
危機の長期化それ自体も、コロナ禍を事実上、社会学者ジグムント・バウマンがいうところの「管理できないもの」にしてしまっていて、感染に対する懸念や不安(「直接的不安」)とは別の経済的、文化的、そして政治的に再加工された「派生的不安」を惹起させている。そこに、政治への怒りや不信感が合わさっている。
失業率への影響を含め、過去の経済的激変と比べても、現状の経済的影響は限定的なものであるのに、株価でいえばアメリカの株高につられて高止まりしている。因果関係については慎重に検討する必要があるが、自殺者数の増加も観察されている。
一般に日本では男性の自殺が多いことが知られているが、若年世代や女性の自殺者数増化が報じられており、男性と比べて平均年収が少なく、非正規雇用者が多く、コロナ禍の制限をより強く受ける飲食、サービス産業などで働く人の多さとの関係が懸念される。
だが、よく考えてみれば、これらの問題は以前から指摘されていたともいえるという意味においては古い問題であり、構造的な問題といえる。
他方で、コロナ禍における社会問題の新たな側面としては、既存の社会問題におけるスパイク(大きな落差、格差のこと)が増幅、強化され、価値の(ときに擬似的)選択がしばしば強制的に迫られるように見えてしまうことである。
例えば、命と経済、どちらを優先すべきか。高齢者の利益と現役世代の利益のどちらを優先すべきかといった一見、真実味を持つ、しかし専門家らは否定するようなトレードオフ関係の選択肢を頻繁に見かけることになった。そして、そのスパイクがしばしば経済団体主導の政策誘導の産物だったことは、巧妙に不可視化されていた。
例えば、労働者派遣事業職種の範囲拡大をはじめ非正規雇用の拡大、東京五輪に向けたインバウンド拡大と需要増大を見越した「過剰」ともいえる観光・宿泊産業振興、医療現場のコスト削減と労働環境改善の遅延などを挙げることができるだろう。もし、これらの認知されてきた問題が適切かつ迅速に手当されていたなら、改悪されていなかったら、どうだっただろうか?
本連載を通して、そういったことを考える想像力を働かせてみてほしい。このように考えると、コロナ危機は新旧の性質をもった、そして経済にとどまらない総合的な社会問題としての様相を色濃くしているとみなすことができるだろう。
これまで普通であったことや「常識」が新しい不確実性を次々に増大させ、新しい不確実さはいつの間にか、終わりが見えない日常と化している。
それが我々が今生きる新常態の社会である。改めて、社会問題としてもコロナ危機を捉え、理解する必要性を感じる。そして、それらがなぜ、どのように生じているのか、「別の在り方」はありえたのかを考えるこ とに本連載の意図はある。
社会問題としてコロナ危機を捉えようとするとき、「政府がコロナ危機に際して、何を考え、どのような大局観のもとで、何をしようとしているのか」を合理的に見通し難いという、予見可能性の低下を指摘することができる。
直接的不安は人の自然感情であり、本能でもある。また、政治や行政に対する批判という意味でも完全に払拭することはできないし、そうすべきでもあるまい。他方で、派生的不安は理由を政治行政による要因と、メディア環境の複雑化等といった環境要因に大別できる。
少なくとも後者については低減、改善するようにアプローチすべきで、そのような指摘は過去の感染症拡大に際しても指摘されてきた。しかし、詳しくは後述するが、いまも法が求める最低限の対応がなされていないように思える。
もちろん政府の手の内を完全に明かすことは、政治行政情報が統治機構と社会のあいだでどうしても非対称にならざるをえない以上難しいが、相応の説明、説得、対話を行うことはできるし、本来そうあるべきだ。
もう少し付言するなら、それらが意図的かどうかにかかわらず十分になされてこなかったことが、政府の振る舞いの見通し難さに由来する不安となって政治不信を招来している。そして、現状では「自粛」と「要請」に強く頼らざるをえない日本型の感染症対策の前提としての国と社会の信頼関係を毀損してしまっていることは、今一度想起される必要がある。
コロナウイルス感染症という未曾有の規模の感染症に対する不安は、危機を眼前にしたときの、ある意味では当然の不安だが、政策や対処の先行きの不透明性に伴う派生的不安は、人為的に対処できる余地があるはずだからだ。