議会制民主主義を支えるもの
2021年01月04日
毎年1月には国会の「通常会」が開かれる。しかし今、国会には、4年間果たされず宿題となっている会期がある。2017年に憲法53条に基づいて要求された臨時会である。現在、この《行われなかった臨時会》をめぐる裁判が係争中である。
日本国憲法53条は「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」と定めている。
2017年6月、当時の衆議院議員120名、参議院議員70名、計190名の議員が内閣に、この日本国憲法53条の後段に基づいて臨時会の召集を要求した。内閣は約3カ月の間これに応じず、同年9月に臨時会を召集し、その冒頭で衆議院解散を宣言した。要求を行った議員たちが求めていたのは、森友・加計学園問題の経緯を明らかにすることだったが、この議事は行われなかった。
このことの違憲違法性を問う裁判が、沖縄・東京・岡山で提起され、係争中である。2020年6月10日の那覇地裁判決は、この中で最初に出された判決である(朝日新聞6月10日『国会召集「内閣に法的義務」 憲法53条めぐり初判決』参照)
この那覇地裁判決は「内閣は憲法53条後段に基づく要求を受けた場合、臨時会を召集すべき憲法上の義務がある」と明言し、その召集時期についても「合理的期間内に臨時会を召集する義務がある」と判示している。そして、内閣の対応次第では違憲と判断される「余地はある」とも述べた(※)。
※那覇地裁2020年6月10日判決18‐26頁。この判決の内容と問題点については、志田陽子「解釈すれども判断せず――憲法53条訴訟・那覇地裁判決が投げかけたもの」(法と民主主義2020年7月号掲載)で詳しく考察した。
裁判所がこれを明確に言葉で示したことの意義は大きい。判決のこの部分を読めば、誰でも2017年のケースは憲法違反だとわかる内容だ。
しかし那覇地裁判決は、結論として原告の請求を棄却した。①憲法53条は、個々の議員の請求権を保障したものとは言えない、②内閣の義務違反に対して、強制する法規がない、③国家賠償法1条1項を適用できる事案ではない、という理由による。
①についていえば、憲法53条後段の臨時会召集要求が行われる際に、議院が総意を取りまとめるような手順は定められていない。国会法3条では、この要求は議長を「経由して」、要求を行った議員の連名で内閣に提出される。内閣が発行する『官報』を見ても、この要求への内閣からの応答は、各議院の議長宛ではなく、要求を行った議員(代表者数名)宛てに個人名を明記して行われている(たとえば平成27年12月17日の『官報』第6679号7頁)。ここから考えると、この権利は国会議員個々人の具体的な権利と見るべきである。
②についていえば、国家賠償法という制度が現に存在するのに、この制度による救済をこのような論法によって塞ぐことは、今後広汎にわたる禍根を残すことになりかねない。判決は、この問題について「司法審査の対象とする必要性が高い」としているのだから、この趣旨を同法1条1項に生かす解釈を採用すべきだった。
③についていえば、ここで《公益の実現》と《権利の行使》を二者択一の関係に置いたところに、この判決の誤りがある。
公務員や医師、公共交通機関の職員、法曹、教員など、公益性の高い職業にも、職務・責任の側面と同時に、その職責を自発的に果たそうとしているときに妨害を受けない権利――「職業遂行の権利」――の側面がある。国会議員もこの点では同じである。臨時会の開催や、そこでの国会議員の活動に公益性があることはたしかだが、それはこの権利の権利性を否定する理由にはならない。
日本国憲法の制度全体を支える民主主義観は、単なる多数決ルールではなく、熟議と循環の民主主義である。
国会の機能は「立法」――政策決定や予算の審議採決――だけではない。それ以外のさまざまな機能を果たすことによって、あるべき民主主義の循環を支えることが求められている。
たとえば憲法は、50条(不逮捕特権)と51条(議院内の発言が法的に責任に問われないルール)によって、議員の議会への出席と自由な発言を特別に重視している。また、国政調査権(憲法62条)やその他の質問・質疑の全般は、国政とくに行政への民主的コントロールを確保するためのものである。そして国会の本会議は国民に公開されなければならない(憲法57条)。国民はこれによって国会の議事の様子を知る権利を確保し、次の選挙(15条)での判断材料にすることができるし、請願(憲法16条)や世論形成(憲法21条・表現の自由)を通じて民主プロセスに参加することもできる。日本国憲法における民主主義は、こうした循環(サイクル)を無限に繰り返していくようにデザインされた民主主義である。
今、この「循環系」のあらゆる場面で機能不全が起きていることは周知のとおりだが、憲法53条問題も、この一連の問題の中に位置づけられる。
たとえば、53条後段に基づいて臨時会の要求があったとき、内閣の閣僚や与党所属の議員は、「今期懸案の法案は可決されたのだから、これ以上の議事に時間を使いたくない」「もう勝敗はついたではないか」という気分を感じるかもしれない。しかし、「まだ国会で質(ただ)すべき事柄がある」「この議事を通じて国民に知らせるべき事柄がある」と考えた国会議員が一定数以上いた場合には、この議事の要求を黙殺することは許されない、というのが53条後段の内容である。
日本国憲法が採っている「議院内閣制」(憲法68条)は、本来は行政を国会の信任とコントロールのもとに置くための制度なのだが、現実には、政党政治が組み合わさることによって、内閣に対する国会の独立性を確保することが難しくなっている。与党の幹部が内閣総理や閣僚の主だったメンバーを兼ねることになるため、内閣が提出する法案や予算案に与党所属の国会議員(数として多数派)がそのまま同調し、結果的に国会が内閣に追従する状態が起きやすいからである。そうした制度的・現実的前提がある中で、53条後段は、国会と内閣の関係をあるべき対等な関係へと是正するレジリエンス(自己修復)の仕組みを担っている。
予算や政策を多数決ルールで決めることだけが国会の役割だと考えるならば、上記の「気分」のほうが正しく、53条後段はなくてもいいことになるだろう。逆に、53条後段が存在するという事実から、日本国憲法が採用している議会制民主主義は、「議」の要素を不可欠の要素とするものだということがわかる。石造建築でいえば、41条「国権の最高機関」という言葉が塔や天守にあたるシンボル的価値をもつ一方で、53条後段は建物全体を構造的に支えている「隅石」(すみいし)のようなものである。
現在、この53条後段が軽視され、空文化させられようとしていないか。今、その流れを止めないと、日本の民主主義は「議」の要素の抜け落ちた「数の支配」から抜け出せなくなり、致命的な劣化を被ることになる――。
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