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文章は“書く”ものではなく出会いの中で“書かせてもらう”もの

ジャーナリスト中村一成さんが経験したルーツにまつわる葛藤と取材でのこだわり

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

ベッドの下にサバイバルナイフを

 父は母に暴言を吐く一方、子どもたちには直接的な暴力を振るった。家で食事中に、剥き出しの短刀を妹に投げたこともある。覚えているだけでも、一成さんは鼻の骨を2回折られている。「お前も母親と同じ目をしている」と殴られたこともあった。

 父親を刺激しないよう、子どもたちは常に緊張していた。気に食わないことがあれば、父のいら立ちが一週間も続く。そんな時はなおさら、家に帰る足取りが重くなった。

 「現場の事故で死んでくれないかとさえ考えたことがあります。その一方で、怒りの“スイッチ”が入らない限りは、子どもを溺愛するんです。特に子どもたちにひもじい思い、経済的に惨めな思いをさせないことへの執念は凄まじいものがありました。彼にとってはそれが最も大事な“親の証”だったのでしょう。不思議な人だ、と思いながら育ちました」

 それでも、壁一枚隔てた部屋で、母親が暴言で踏みにじられるたびに、「いつか殺してやろう」という思いが募っていった。「中学生の頃、ベッドの下にサバイバルナイフをずっと入れていたんです。当時、父親が母親に何かした時には殺すしかないと思っていました」

初めて知った”もう一人の祖父”の存在

 母は何度父親に蹂躙されても、子どもたちに自身の出自を明かすことはなかった。彼女が高校時代に名乗っていた「新井」は、在日コリアンに多い通名のひとつだ。母の卒業アルバムの顔写真の下、名前があったはずのところには、先のとがった何かで削り取った跡が残されていた。子どもたちが見て何かを察しないよう、神経をとがらせていた。

 母が初めて自分のルーツを語ったのは、一成さんが高校生になってからだった。当時所属していた柔道部で足の骨を折る怪我をし、母に車で送り迎えをしてもらっていた。学校から帰る車の中で、母がふと、こう告げてきた。「あんたにはもう一人、おじいちゃんがおってな、今日亡くなってん。“あっちの人”やねん…」

 母が12歳の時に、母の父母、一成さんにとっての祖父母が離婚し、その後、祖母は日本人と再婚したのだった。それが、一成さんが「祖父」と認識していた、プレハブ建設の会社を営む人だった。この車中での会話以前、一成さんは血のつながっている“もう一人の祖父”の存在さえ知らなかった。

 「その祖父は、“飲む・打つ・買う”に加えて暴力もひどいヤクザで、気にくわないことがあれば、祖母の髪の毛をつかみ引きずりまわしたそうです。だから母親はものすごく憎んだ。その反面、子煩悩な顔もあったようで、割り切れない、複雑な思いを抱いていたんでしょう。死に目に会えなかったのも辛かったのかもしれません。だからこそ私に言わずにはいられなかったのでしょう」

 ぽつりぽつりと語る母の言葉の中で、「あっちの人」という言葉の響きが、心に引っかかった。

在日コリアンのコミュニティーと縁を断って

 祖父のみならず、祖母も在日コリアンだ、と母が口を滑らせるように語ったのは、それから何年も後のことだった。祖母も母も、一成さんが小学校高学年の時に日本国籍となり、在日コリアンのコミュニティーとの縁の一切を断っていたのだ。

 振り返れば、祖母の作るキムチは、ニンニクを入れず、生姜とニラがたくさん入っていた。水っぽく、とても美味しいとは言えなかった。「今思うと、“ニンニク臭い”と言われるのが嫌だったのかもしれません」。

 一成さんが在日コリアンの集住地区へと出向いたと話すと、祖母は「なんでそんなところ行くねん」と嫌がった。一緒に焼肉に行くときは必ず、そうした集住地区ではない場所を選んだ。祖母は入り口から死角になる席で帽子を深くかぶり、サングラスをかけて一成さんを待っていたという。どこで在日コリアンのコミュニティーとつながるか分からない、という不安があったのかもしれない。

拡大多くの在日コリアンの生活の拠点である大阪市・鶴橋駅前。特に2013年から2014年にかけて、過激なヘイト街宣がこの周辺でも繰り返されてきた(安田菜津紀撮影)

 母も祖父の死後しばらくして、祖父側の親族と縁を切ってしまった。「祖父だけではなく、叔父二人もヤクザで、母が“あの二人は『その世界』しか知らなかった…”と嘆いていたこともありました。酷い偏見ですが、“ヤクザの子はヤクザになる”と言う人も周囲にいたそうです。彼女が恐れたのは私が彼らに近づくこと、もっといえば彼らを通じて、私が祖父の生き方に近づくことでした」

 その断絶は一成さんにとって、ルーツを断ち切られることを意味していた。アイデンティティに対する、複雑な思いは募る。「だからこそ、祖母や母は、自分の出自を嫌い、憎んでいるのだと思っていました」

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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