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色んなバックグラウンドの人が堂々と生きられることが社会の豊かさにつながる

映画『出櫃(カミングアウト)―中国LGBTの叫び』の監督・房満満さんインタビュー

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

幼い頃に刻まれた「日本」という言葉

 房さんは1989年、中国・江蘇省徐州市で、郵便局に勤める公務員の父、英語教師の母の元に生まれた。一昨年亡くなった祖母の姉は、日本の敗戦後、国民党と共産党との国共内戦で、国民党の軍について台湾に逃れた。祖母は江蘇省の村に残ったため、台湾との往来ができるようになるまでは音信不通だった。

 房さんが1歳の時、祖母の姉である“台湾のおばあちゃん”が故郷に戻り、約40年ぶりの再会を果たしたという。“台湾のおばあちゃん”が家にいる間は、テレビをつけない。それが一家の暗黙のルールだった。

 「国民党と共産党では、政治的なスタンスは真逆ですよね。祖父は毛沢東に心酔していたし、テレビつけると共産党のプロパガンダしか流れない。ぴりぴりした空気が流れるし、喧嘩になる。だからみんな、政治的な話は一切しないように心がけていました」

 そんな”台湾のおばあちゃんがお土産として持ってきてくれるものは、普段着にもなる爽やかなワンピースなど、当時としては珍しく見えるものだった。それを着た房さんに、「日本人みたいね」と”台湾のおばあちゃん”が口にしたのを覚えている。彼女は台湾で学校の先生をしていたため、生徒の中に日本のルーツを持つ子どもがいることも話していた。漠然とではあるが、幼い房さんの中に、「日本」という言葉が刻まれていた。

 「その一方で、学校の教科書を読むと日本といえば戦争と軍国主義、テレビでは連日、小泉首相や靖国神社のことでしたね。今思うと、”台湾のおばあちゃん”が話す日本と、教科書から受ける印象とのギャップを、無意識のうちに感じていたのだと思います」

 母はリベラルな人だったが、父方の祖父が戦争に行っていたこともあってか、父はあまり日本にいいイメージを抱いていなかったようだ。

拡大中国・江蘇省、谷超さんの実家からほど近い塩城市内の街並み(C)テムジン

大学で日本語学科へ。日本に留学も

 日本との縁は、思わぬ形で訪れることになる。

 高校卒業を間近に控えた房さんは、熾烈な受験勉強の渦の中でもがいていた。「中国の大学受験は、追い詰められて自殺する子もいるくらい厳しい競争です」。推薦受験を受けることになった中国伝媒大学は、受験生5000人に対して、各学科の枠はほぼ2人、その中で日本語学科だけが4人の枠だった。

 「狭い枠ですけれど、定員は他の言語の学科に比べて二倍ですよね。だから日本語を学びたい、ということではなくて、倍率でこの学科を選んだんですよ」と、房さんはいたずらっぽく笑った。

 その試験に無事合格した房さんは、中国伝媒大学3年生のとき、学校の交換留学で提携校である実践女子大学に留学した。

 「まず、履修科目に選択科目があるのが新鮮でした。中国で学んでいた時は必修科目ばかりだったので、自分に選択できる自由がある、ということがすごく嬉しかったんですよね。中国伝媒大学は、メディアを学ぶための名門とされていますが、報道の自由は限られています。だから、社会の構造やメディアの役割についての授業は、中国では触れられない学びでした」

 その一方で、学食での学生同士の会話が、彼氏や芸能人のことばかりなのにも驚いてしまったという。「私が中国で学んでいた大学では、授業の内容だったりイベントの相談だったり、もっと会話の内容がカラフルだったんですよね」。授業中も寝ている学生が目立ち、授業が終わった後に質問に行くのは留学生ばかりだった。

人民日報のインターンで抱いた違和感

 1年の交換留学を終えて帰国、中国伝媒大学を卒業した後、房さんは早稲田大学大学院のジャーナリズムコースに進んだ。再び日本に戻り、ジャーナリズムを学びたいと思ったきっかけは二つあった。

 ひとつは、学校の単位取得のために必要なインターン活動で、共産党の機関紙である人民日報の海外版に配属されたことだった。日本で東日本大震災が起きた直後だったため、日本語ができるインターンを募集していたのだ。だが働き初めて早々に、房さんは違和感を抱く。

 「人民日報がどういうメディアなのか分かっていたつもりですが、予想以上につまらなかったんですよね。企画会議でできること、できないことがはっきりしていたし、先輩たちは有望な人たちであるにも関わらず、仕事を”作業”としてこなしている感じがしました。伝えることに対して情熱がなく、ただただ書いている様子にびっくりしてしまいました」

 房さんは被災した人々、一人ひとりの声を伝えたいと考えていた。けれどもそれは、人民日報では叶わなかった。「結局、菅直人さんの言動だったり、政治的な動向しか載せてくれないんですよね。日本=日本政府、人間の声を広げることが許されないのは嫌だな、と思ったんです」

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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