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色んなバックグラウンドの人が堂々と生きられることが社会の豊かさにつながる

映画『出櫃(カミングアウト)―中国LGBTの叫び』の監督・房満満さんインタビュー

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 「父さんに証明したい……僕は同性愛者でも、ちゃんと自力で生きていけることを」

 映画『出櫃(カミングアウト)―中国LGBTの叫び』を最初に観たとき、主人公の一人である谷超(ぐー・ちゃお)さんのこの言葉が突き刺さった。

ゲイである息子を受けいられない父

 彼は意を決して、自分がゲイであることを父にカミングアウトした。父は息子への愛情の中で葛藤しながらも、その告白を受け入ることができなかった。

 谷超さんは塾講師をしながら、教員免許取得のための勉強を続けていた。そんな折に、ふとその言葉を口にしたのだ。目標に向かい努力をする姿勢は素晴らしい。けれども、自身がマイノリティーであるがために、必要以上の重荷を背負ってしまう姿には、胸の奥が締め付けられるような思いだった。

父にカミングアウトした谷超さん(左)(C)テムジン

東京ドキュメンタリー映画祭短編部門でグランプリ

 この映画の監督、房満満さんは言う。

 「例えばセクシャルマイノリティーの人たちについて街頭インタビューをしていると、若い世代は“うちの会社にもいますよ”“それぞれの自由がありますから”という答えが多いんです。ただ、“あなたの兄弟や親友からカミングアウトされたら?”と尋ねると、“それはちょっと…”と、後ろ向きの言葉が返ってきます。認知自体が少しずつ広がる一方で、身近な人だと受け入れ難い、という壁はまだまだあります」

 『出櫃(カミングアウト)―中国LGBTの叫び』は、2019年2月にNHK「BS1スペシャル」で放送された番組を再編集したもので、この年の「東京ドキュメンタリー映画祭」短編部門でグランプリを受賞した。

 ありのままの姿を受け入れてもらおうと、勇気を振り絞って親にカミングアウトする二人の若者、谷超さんと安安(あん・あん)さん。我が子からの告白に悩み葛藤する親。そんな親子を支える人たちの姿を描いた作品だ。

 房さんは今、番組制作会社「テムジン」でディレクターを務めている。日本に暮らして10年あまりの房さんに、今に至るまでの歩みを伺った。

房満満さん(安田菜津紀)

幼い頃に刻まれた「日本」という言葉

 房さんは1989年、中国・江蘇省徐州市で、郵便局に勤める公務員の父、英語教師の母の元に生まれた。一昨年亡くなった祖母の姉は、日本の敗戦後、国民党と共産党との国共内戦で、国民党の軍について台湾に逃れた。祖母は江蘇省の村に残ったため、台湾との往来ができるようになるまでは音信不通だった。

 房さんが1歳の時、祖母の姉である“台湾のおばあちゃん”が故郷に戻り、約40年ぶりの再会を果たしたという。“台湾のおばあちゃん”が家にいる間は、テレビをつけない。それが一家の暗黙のルールだった。

 「国民党と共産党では、政治的なスタンスは真逆ですよね。祖父は毛沢東に心酔していたし、テレビつけると共産党のプロパガンダしか流れない。ぴりぴりした空気が流れるし、喧嘩になる。だからみんな、政治的な話は一切しないように心がけていました」

 そんな”台湾のおばあちゃんがお土産として持ってきてくれるものは、普段着にもなる爽やかなワンピースなど、当時としては珍しく見えるものだった。それを着た房さんに、「日本人みたいね」と”台湾のおばあちゃん”が口にしたのを覚えている。彼女は台湾で学校の先生をしていたため、生徒の中に日本のルーツを持つ子どもがいることも話していた。漠然とではあるが、幼い房さんの中に、「日本」という言葉が刻まれていた。

 「その一方で、学校の教科書を読むと日本といえば戦争と軍国主義、テレビでは連日、小泉首相や靖国神社のことでしたね。今思うと、”台湾のおばあちゃん”が話す日本と、教科書から受ける印象とのギャップを、無意識のうちに感じていたのだと思います」

 母はリベラルな人だったが、父方の祖父が戦争に行っていたこともあってか、父はあまり日本にいいイメージを抱いていなかったようだ。

中国・江蘇省、谷超さんの実家からほど近い塩城市内の街並み(C)テムジン

大学で日本語学科へ。日本に留学も

 日本との縁は、思わぬ形で訪れることになる。

 高校卒業を間近に控えた房さんは、熾烈な受験勉強の渦の中でもがいていた。「中国の大学受験は、追い詰められて自殺する子もいるくらい厳しい競争です」。推薦受験を受けることになった中国伝媒大学は、受験生5000人に対して、各学科の枠はほぼ2人、その中で日本語学科だけが4人の枠だった。

 「狭い枠ですけれど、定員は他の言語の学科に比べて二倍ですよね。だから日本語を学びたい、ということではなくて、倍率でこの学科を選んだんですよ」と、房さんはいたずらっぽく笑った。

 その試験に無事合格した房さんは、中国伝媒大学3年生のとき、学校の交換留学で提携校である実践女子大学に留学した。

 「まず、履修科目に選択科目があるのが新鮮でした。中国で学んでいた時は必修科目ばかりだったので、自分に選択できる自由がある、ということがすごく嬉しかったんですよね。中国伝媒大学は、メディアを学ぶための名門とされていますが、報道の自由は限られています。だから、社会の構造やメディアの役割についての授業は、中国では触れられない学びでした」

 その一方で、学食での学生同士の会話が、彼氏や芸能人のことばかりなのにも驚いてしまったという。「私が中国で学んでいた大学では、授業の内容だったりイベントの相談だったり、もっと会話の内容がカラフルだったんですよね」。授業中も寝ている学生が目立ち、授業が終わった後に質問に行くのは留学生ばかりだった。

人民日報のインターンで抱いた違和感

 1年の交換留学を終えて帰国、中国伝媒大学を卒業した後、房さんは早稲田大学大学院のジャーナリズムコースに進んだ。再び日本に戻り、ジャーナリズムを学びたいと思ったきっかけは二つあった。

 ひとつは、学校の単位取得のために必要なインターン活動で、共産党の機関紙である人民日報の海外版に配属されたことだった。日本で東日本大震災が起きた直後だったため、日本語ができるインターンを募集していたのだ。だが働き初めて早々に、房さんは違和感を抱く。

 「人民日報がどういうメディアなのか分かっていたつもりですが、予想以上につまらなかったんですよね。企画会議でできること、できないことがはっきりしていたし、先輩たちは有望な人たちであるにも関わらず、仕事を”作業”としてこなしている感じがしました。伝えることに対して情熱がなく、ただただ書いている様子にびっくりしてしまいました」

 房さんは被災した人々、一人ひとりの声を伝えたいと考えていた。けれどもそれは、人民日報では叶わなかった。「結局、菅直人さんの言動だったり、政治的な動向しか載せてくれないんですよね。日本=日本政府、人間の声を広げることが許されないのは嫌だな、と思ったんです」

彼氏の存在で“日本人像”が変わった

 もうひとつのきっかけについて尋ねると、「実は…日本人の彼氏ができたことです」と、房さんは少しはにかんだ。「この国ってとても素敵で、人間が優しい、と心から思えたのは、彼の存在があったからですね」。

 付き合っていたのは、実践女子大に留学中、国際交流団体のイベントで出会った社会人の男性だった。彼だけではなく、彼の家族、同僚や仲間、つながりの中で出会った人々は皆、素敵な人たちばかりだったという。

 今でもはっきり覚えていることがある。ある時、駅の階段を走ってのぼっていると、焦っていたためか房さんの靴が脱げてしまった。彼がすぐにその靴を取りに行き、自然と房さんに履かせてくれる様子を見ながら、通りすがりの高齢の方が「素敵な彼氏ですね」と声をかけてくれた。「すごくささやかなことですが、人間同士の触れ合い、ぬくもりに満ちた一言の積み重ねは大きいんですよね」。

 付き合っていた彼は戦争についての知識も豊富で、過去の日本の加害性も理解していた。

 「彼と、彼の周りと接するようになってから、今まで自分の中にあった歪んだ“日本人像”とは何だったんだろう、と不思議に思えてきたんです。そこで初めて、メディアや教科書で作られた像にとらわれていたことに気が付いたんですよね。自分は独立した思想を持っていると思っていたので、無意識のうちに社会にある大きな声に影響されてしまっていたことがショックでした。メディアについて学ぶ大学に通っていたのに、何を学んできたんだろう、と」

 もう一度、日本で学び直したいと思った。そこで出会ったのが、教鞭をとっていたジャーナリストの野中章弘さんだった。

大学院自体の恩師、野中章弘さんと(房さん提供)

NHKスペシャルで感じた恥ずかしい思い

 野中さんのゼミは、メディアに携わる人と触れ合う機会が多いと評判で、メディアを目指していたり、ドキュメンタリーに興味がある学生が集まっていた。ここでの学びはもちろん、ゼミの有志で週に一度開いていた「ドキュメンタリーを観る会」も大きな経験となった。ドキュメンタリーを皆で観た後、熱い議論を交わし、大学を出た後も食事をしながら語らい続けた。

 この会の中で、NHKスペシャル「激流中国」を見る機会があった。2008年の北京五輪前に放送された、社会問題を取り上げるシリーズだ。とりわけ印象にのこったのは、四川省まで出稼ぎに行くチベット人男性の、現金収入と信仰とのはざまでの葛藤を追ったドキュメンタリーだった。

 それまで、チベット族が少数民族であることは認識していたものの、房さんの中には漠然としたイメージしかなかった。彼らがどんな生き方をして、お金が人間の人生にどれほど影響を及ぼすのかを目の当たりにし、新たな世界が開けたような思いだった。「同時に、どうして中国人の私がそれを知らず、日本人の作ったドキュメンタリーで初めて祖国のことを学ばせてもらうんだろう、と恥ずかしく思ったんです」

 こうした新鮮な驚きと、現実を知らなかった自分への悔しさを重ねながら、自身もこの道に進み、日々の暮らしの中では接することの少ない人たちのことを、知るきっかけとなるような何かを作りたいと思うようになったという。

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