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「世界大学ランキングのための大学改革」という愚策(下)

「大学の英語化」ではない、真のグローバル化とは

山内康一 前衆議院議員

「世界大学ランキングのための大学改革」という愚策(上)

英語力を除いた「真の実力」は劣っていない

 世界大学ランキングの上位に食い込めなくても、英語という要素を除けば、日本のトップクラスの大学の水準は低くない。筆者の肌感覚では、日本の旧帝国大学や私大のトップレベルの大学の教育研究のレベルは国際的に決して劣っていない。

 東京大学とオックスフォード大学の両方で教えた経験のある苅谷剛彦教授(教育社会学)、東京大学とハーバード大学の両方で教えたことのある吉見俊哉教授(社会学)、東京大学とプリンストン大学の両方で教えたことのある佐藤仁教授(地域研究)の3人の著書を読んで受ける印象は、東京大学と米英のトップ校の学生のレベルはそれほど変わらない(どちらも優秀)ということだ。

 次に筆者の留学体験に基づく主観評価(参与観察?)になってしまうが、世界ランキングのトップ校の教育研究レベルと日本のトップ校の教育研究レベルは大差ないと感じる。

 QSの大学ランキングには、大学全体としての総合評価のランキングの他に、学部(専門別)の大学ランキング(QS World University subject rankings)がある。ちなみにTHEには学部別大学ランキングはない。例として「教育学(Education)」分野のQSのランキングを見てみる。

教育学(Education)部門の大学ランキング

1位  ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン【英国】
2位  ハーバード大学 【米国】
3位  スタンフォード大学 【米国】
4位  オックスフォード大学 【英国】
5位  トロント大学 【カナダ】
6位  ケンブリッジ大学 【英国】
7位  香港大学 【香港】
8位  カリフォルニア大学バークレー校 【米国】
9位  ブリティッシュコロンビア大学 【カナダ】
10位  コロンビア大学 【米国】

 トップ10は、米国が4校、英国が3校、カナダが2校、香港が1校という構成で、やはり英語圏に有利な状況は教育学に限定したランキングでも変わらない。

ロンドン大学教育研究所の玄関に飾られた「教育学では世界ナンバー1」の垂れ幕=2014年6月9日ロンドン大学教育研究所の玄関に飾られた「教育学では世界ナンバー1」の垂れ幕=2014年6月9日

 ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの教育研究所(筆者の母校)が教育学部の世界ランキング1位だ。一方、日本でランキングの順位が高い東京大学の教育学部は「51~100位」というカテゴリーに入っており、世界の教育学部のなかではトップレベルとは見なされていない。

 理由は単に英語の問題だろう。日本の教育学界では、英語の論文を書く必要性も習慣もあまりない。おそらくそれだけだ。

 教育学のなかでも、教育経済学のように計量可能な分野は国際比較しやすいので、英語で論文を書くケースも多いかもしれない。しかし、国語教授法とか、教育法規とか、教育行政といった分野は、社会的・文化的背景が重要であり、国際比較は難しく、日本の事例について英語で論文を書く必要性は少ないだろう。

 ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに属する教育研究所で講義を受けたり、グループ討論をしたり、修士論文を書いたりした経験を踏まえると、英語のハンディキャップさえなければ、日本のトップ校より高度な学問をしているという感じはしなかった。日本の教育学者の書いた本や論文より、英語で書かれた教育学の本や論文の方が高度であるとも限らない。日本の教育学の水準はかなり高いと思う。

 日本で伝統的に教育学に強いのは、東京大学のほかに戦前の高等師範学校の流れをくむ筑波大学や広島大学などである。この3校の教育研究の水準は、英語という要素を除けば、世界で通用するレベルだと思う。たとえば、広島大学の教育大学院は、発展途上国の教育研究に力を入れており、「英語」という要素を外せば、教育学部の世界ランキングのトップ50校に入る実力が十分あると思われる。

東京大学の安田講堂をバックに記念撮影し、合格を祝う受験生ら=2017年3月10日、東京都文京区東京大学の安田講堂をバックに記念撮影し、合格を祝う受験生ら=2017年3月10日、東京都文京区

母語で教育を受けられる利点を手放すべきか

 しかし、学術レベルが高くても、英語で論文を発表し、外国人教員の比率を上げないことには世界大学ランキングの上位には入らない。

 大学世界ランキングの順位を上げることを目的とすれば、外国人教員や留学生を増やさなくてはならない。外国人教員と留学生を増やすために、英語で開講される講義が多くなる。

 たとえば、外国人留学生向けに日本に強みのある工学部や日本研究などのコースを英語で開講してもよいだろう。そういったコースには一定のニーズがある。しかし、学生の大半が日本人のコースを、無理して英語で開講する必要はない。そもそも英語の講義だけを受けたければ、海外の大学に行った方が手っ取り早い(ついでに海外生活で異文化も体験できる)。

「スーパーグローバル大学」37大学の一つに選ばれた立命館アジア太平洋大学(APU)の入学式。52カ国・地域から606人の留学生が入学した=2014年9月19日、大分県別府市「スーパーグローバル大学」37大学の一つに選ばれた立命館アジア太平洋大学(APU)の入学式。52カ国・地域から606人の留学生が入学した=2014年9月19日、大分県別府市

 母語である日本語で大学教育を受けられることは、多くの日本人にとって大きなメリットである。母語で大学教育を受けられることが、大学教育の普及に大きく貢献してきた。

 人間は言葉で考える。言語が思考を規定する。高度な学問を母語で学べるのは、その点からも強みだ。言語の多様性は、人類全体にとって価値がある。いまの「大学のグローバル化」は、ほぼイコール「大学の英語化」に堕している。いわば英語帝国主義的な大学のグローバル化が、言語の多様性を壊しつつある。そして「言語が思考を規定する」という前提に立てば、言語の多様性が失われることは、思考の多様性が失われることである。

 世界の多様性を守るために、日本語と日本文化を守っていくことは、人類全体への貢献である。大学教育の英語化を進めることは、日本語や日本文化を守り発展させる上でも、世界の言語の多様性を守る上でも、大きな禍根を残す。

 慣れ親しんだ母語の基礎の上に、母語で高度な学問を学べることは、外国語のハードルを乗り越えた上でないと高度な学問を学べない国の人たちにはない利点である。

 母語で高等教育を受けられない人が、世界にはかなりの割合で存在する。世界に数千ある言語の中で、複雑な近代科学を論理的に書き記すに足る語彙を持っている非ヨーロッパ言語は少ない。先人たちの努力のおかげで、日本語や中国語、韓国語などは恵まれた部類に入る。

 筆者はフィリピンの大学に1年留学したことがあるが、英語が得意でないフィリピン人の大学生が多数いることを知り、彼らを見て気の毒に思った。日本人は英語ができなくても社会生活や職業生活においてさほど困らない。しかし、フィリピン人で英語ができないと、社会生活を送る上で多くの困難に直面する。

 フィリピン人のエリートは英語で教育を受けているので、グローバルな競争で有利な面もある。その一方、英語の不得意なフィリピン人は、大学教育を受けられる選択肢が極端に少なくなる。日本人なら英語が苦手でも、物理学や経済学などの高度な学問を母語で学べる。しかし、フィリピン人で英語が苦手な人は、物理学や経済学を学ぶのにも不自由する。エリートのフィリピン人にとっては英語はハードルではないかもしれない。他方、非エリートのフィリピン人にとっては英語のハードルは高く、大学教育へのアクセスが限定され、大学教育の大衆化のハードルとなる。

 日本にも英語公用語化を唱える人がいるが、筆者は「英語公用語化=日本の英語植民地化」だと思う。英語公用語化は、英語が得意な国民とそうでない国民の分断を招く。平均的な国民の教育水準を高める

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