メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

インターネットが遮断され、市街地でデモが始まった~「ヤンゴンから緊急リポート」第三弾

松下英樹 Tokio Investment Co., Ltd. 取締役

 ミャンマー国軍によるクーデター発生から6日目、ヤンゴン市内ではインターネット回線が遮断された。長引くコロナ禍で生活が困窮していた矢先の騒ぎに、市民たちの怒りは頂点に達している。市内各地でデモも始まった。ヤンゴン在住の日系投資会社役員、松下英樹さんの緊急レポート第三弾。
松下英樹(まつした・ひでき) ヤンゴン在住。2003年より日本とミャンマーを往復しながらビジネスコンサルタント、投資銀行設立等を手がけ、ミャンマーで現地ビジネスに最も精通した日本人の一人として知られている。著書に「新聞では書かない、ミャンマーに世界が押し寄せる30の理由」(講談社プラスアルファ新書)

ネット回線が遮断された

 2月6日午後6時30分(ミャンマー時間)、Myanma Radio Internationalという国営のラジオ放送(英語)を聞きながらこの原稿を書いている。午後2時30分にオフィスのインターネット回線が遮断されてから既に4時間、私はオフラインの状態にいる。大使館からの情報によれば、7日23時59分までインターネット回線は遮断されるとのことである。

 読者の皆さんは想像できるだろうか? 電子メールもSNSも使えず、自分が世界から孤立した状況を。(携帯電話の通話およびショートメッセージは利用可能だが、データ通信は不可)

 2月1日にクーデターが起きてからずっと安否を尋ねるメールやメッセージへの返信と情報収集に追われていたが、今はそれもできない。先ほどまでは抗議の意を表明する車のクラクションがうるさかったが、日没後は急に静かになった。何か起こるかもしれないという緊張感が徐々に高まっている。

 まずは2月3日~5日の動きを振り返りたい。

2月3日~5日の動き

 クーデター勃発後、政治的には目まぐるしい動きがあったが、ヤンゴン市内はいたって平穏で、2月4日からは日系の工場なども操業を再開していた。

 インターネットや携帯電話の通信も平常通りであった。3日からミャンマーでは圧倒的な影響力を持つフェイスブックへのアクセスが遮断されたが、事前に情報を得ていた市民はVPN(Virtual Private Network)を駆使してフェイスブックへの投稿をしたり、Twitter やInstagram のアカウントを開設して軍政への批判を続けたりしていた。

 インターネット上ではデモなどの軽率な行動をいさめる一方で、Civil Disobedience Movement(CDM=不服従運動、公務員のストライキや国営企業の製品やサービスへの不買運動)が呼び掛けられている。

 4日の夜はミャンマー人の友人と屋台でビールを飲みながら情報交換した(コロナの影響でレストラン店内の飲食はできない)。国内で圧倒的なシェアを誇るMyanmar Beer は国軍系企業なので誰も買わない(キリンホールディングスは5日に国軍系企業との合弁解消を発表した)。我々も別ブランドのビールにした。

2月4日 18時 ヤンゴン市内の屋台にて

 彼は欧米の高級車を扱うヤンゴンでも屈指のオートディーラーだが、15年来の付き合いで、軍事政権下で戒厳令が敷かれていた頃には、いつもこんな感じで飲んでいたので違和感はない。

 政治の話より、コロナの影響で車や部品の物流が滞っていること、家族が住んでいるシンガポールへの往来が不自由になったことが主な話題であった。以前は月に数回ヤンゴンとシンガポールを往復する生活をしていたのだが、この一年は出入国の度に検査と隔離生活を余儀なくされるので大変だとこぼしていた。既にシンガポール大使館は自国民に対し、できるだけ早くミャンマーから帰国するように勧告していると聞いた時にはショックを受けたが、超富裕層を顧客とする彼のビジネスにとって政変はビジネスチャンスであることも事実である。

 ミャンマーのような国では何があっても対応できるしたたかさがなければ生き残ってはいけない。

2月6日の動き

 午前7時、朝食をとっている時にミャンマー人の友人から電話があった。「もうすぐインターネットが遮断される」との情報である。すぐに急ぎのメールに返信し、家族に電話をいれる。

 午前9時、自宅のインターネット回線が不通となる。オフィスに移動。オフィスのインターネット回線はまだ使用可能であった。大使館からのメールで7日23時59分まで全国のインターネット接続が遮断されるとのこと。ビジネスへの影響も大きいことから軍政も平日を避け、週末だけに限定したのであろう。大河ドラマの最終回が見られないかもしれないのが残念だ。

 FBに「しばらく連絡できない状態になるかもしれません」と投稿。現地メディアのFBページではヤンゴンでもスーチー氏らの解放を求めるデモが行われているとの報道があった。参加しているのは工場労働者が多いようだ。

 長引くコロナの影響で生活がかなり困窮していたところにこの騒ぎである。彼らの怒りは頂点に達している。従業員は午前中で帰宅させることにした。

 午後2時30分、ついに会社のインターネットも不通となったので、帰宅することに。抗議の意思を示してクラクションを鳴らしながら走る車が多い。商店も急遽、休業するところが増えた。

 念のため、携帯電話のプリペイドカードを購入しようとしてコンビニに立ち寄ったが既に売り切れだった。仕方ないのでワインとビールを購入。自宅で飲んで寝るしかない。

2月6日、臨時休業する商店。サンチャウン地区(著者撮影)

2月6日、臨時休業する商店。サンチャウン地区(著者撮影)

 インターネットから遮断された生活を送るのはいつ以来だろう。1995年に初めてインターネットを使い始めて以来かもしれない。目覚まし時計代わりのアレクサに話しかけても「接続がありません」としか返事をしてくれない。当然だ。

 2003年、軍事政権下のミャンマーでインターネットプロバイダの会社を設立した時は、「インターネットでミャンマーを変える」と本気で思っていた。あれから18年、今やミャンマーではスマートフォンの普及率は100%を超え、インターネットは生活インフラとなっている。2011年に通信を自由化し、携帯電話のSIMカードを1500チャット(当時のレートで180円くらい)に引き下げる英断をしたのは軍人だったテインセイン大統領だった。

 午後7時45分、毎日続く「悪霊退散」(太鼓や金物を打ち鳴らす)の行事が始まる(この様子を伝える動画は前回記事『ヤンゴン市民の怒り、徐々に高まる~緊急リポート「ミャンマー・クーデター」2日目』に)。日を追って激しさが増している気がする。今日は約1時間。いつまで続くのか。鍋を打ち鳴らす音が止んでも、クラクションを鳴らしながら走る車の騒音は鳴りやまない。

 久しぶりに読みかけの本を開く。本を手に取るのも久しぶりだ。

 友人からメッセージあり。明日午前9時から88年の民主化運動のリーダーとして知られるMin Ko Naing 氏の呼びかけでヤンゴン市内で集会が開かれるとのこと。スーチー氏が解放されたとの噂も流れている。

 22時、就寝。

2月7日の動き

 午前6時起床。まだ暗いうちに徒歩20分くらいのところにあるシュエダゴンパゴダまで散歩。普段と変わらず人民公園はジョギングや体操をする市民で賑わっていた。

 黄金に輝く仏塔はヤンゴンのシンボルであるが、コロナ感染拡大防止のため4月から閉鎖されている。軍政は8日から寺院での参拝を再開すると発表した。コロナで閉鎖された寺院がクーデターによって再開されるというのも皮肉なことだ。

2月7日午前6時30分、シュエダゴンパゴダ南門前。ゲートが閉ざされている(筆者撮影)

 午前10時ころからまたクラクションを鳴らしながら走る車が増えてきた。

 午前11時、家の前の大通りを市民のデモ隊が行進している。特に組織だったものではなく服装も普段着のまま。三本指を掲げているのは「不服従運動」のサイン。沿道の人たちは拍手で迎えていた。

午前11時、家の前の大通り(Bagaya Road)を行進する市民(筆者撮影)

午前11時、家の前の大通り(Bagaya Road)を行進する市民(筆者撮影)
 

2月7日午後1時、市民による抗議デモの様子 (筆者撮影)

 終日、街は騒然としている。ヤンゴン市内の各地でデモ行進が起こっているようだ。

 午後2時 突然、インターネット接続ができるようになった。