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防衛官僚の道を選び⽗から勘当 しくじり糧に「背広組」トップへ

連載・失敗だらけの役人人生① 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

連載の「論座」への転載を前にインタビューに応じる黒江氏=2月、東京・神田駿河台。藤田直央撮影

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員による寸評も末尾にあります。

勘当から始まった役人生活

 1980年(昭和55年)夏、大学の最終学年だった私は、着慣れないスーツに身を包んで汗だくになりながら霞が関の官庁街を歩き回っていました。当時は国家公務員試験を受けている学生の官庁訪間が許されており、法律職で受験していた私もいくつかの省庁を訪問して就職活動を行っている真っ最中でした。

 2020年の東京オリンピックは思いがけないコロナ禍によって延期されましたが、ちょうど40年前のこの年に予定されていたモスクワオリンピックは政治的問題に翻弄されていました。前年12月に当時のソ連が親ソ政権を支援するためアフガニスタンに侵攻し、これに反発した西側各国がその年のモスクワ・オリンピックをボイコットしたのです。

 我が国も、西側陣営の一員として他国と足並みをそろえて五輪不参加を決定していました。国家公務員試験の最終関門の面接試験では「日本政府のモスクワ五輪ボイコット政策をどう考えるか」と質問されました。「選手が無念の想いを抱くのは理解するが、国としてはやむを得ない判断だったのではないか」というような無難な答えを返した記憶があります。

 それまで米ソ間では核軍縮交渉などが進み緊張緩和の雰囲気が支配的でしたが、ソ連のアフガン侵攻によって東西関係は一気に冷え込み、冷戦が再び激化しようとしていました。今から振り返ってみると、ソ連のアフガン侵攻は実際には冷戦終結に向かうプロセスの幕開けだったのですが、当時はそんなことなど全く想像も出来ませんでした。

 こうした時代背景の下、私は霞が関ならぬ六本木に当時あった防衛庁(防衛省の前身)を何度か訪問し、何人かの先輩職員との面接を経て、縁あって内々定をもらうこととなりました。確か、8月の中頃だったと思います。

黒江氏が入庁した頃、東京・六本木にあった防衛庁=防衛省の動画「昭和55年 防衛庁記録」より

 しかし、この頃私は心配事をひとつ抱えていました。面接試験が終わった後、郷里の山形に里帰りして家族に官庁訪間の様子も含めて報告したところ、父が私の防衛庁入庁に強く反対したのです。

 大正15年生まれの父は、自らの中学・高校時代を太平洋戦争の中で過ごしたいわゆる戦中派でした。父自身が戦地に赴いたことはありませんでしたが、徴兵された先輩も多く、戦時中の自由が制約された苦しい生活を経験したことから戦争や旧軍に対して強烈な反感を抱いていました。

 私が防衛庁に入ろうとしていることを知った父は激怒し、「お前が自分自身の命を賭ける自衛官になろうというのなら百歩譲って理解するが、文官になって他人を戦争に送り込むような仕事をするのは絶対に許さない」と言い出しました。そればかりか、私が防衛庁から内定をもらえそうになっていることを知り、「知り合いのつてを通じて山形出身の防衛庁幹部に頼んで、お前に内定を出さないようにしてもらう」とまで言いました。

 その後、父との関係は何の進展もないまま10月1日を迎え、防衛庁から正式の採用内定をもらいました。その晩、父から電話があり、「お前とはもう一切関係ない。二度と実家の敷居をまたぐな」と言い渡されました。いささか古風な言い方をすれば勘当です。

「誰もやらないなら自分が」

 当時、私は大学の講義の単位もあらかた取り尽くし、時間があったので上野動物園の売店でアルバイトをしていました。父から勘当を言い渡された翌日は、売店でお客さんにジュースをこぼしたり、注文されたアイスクリームの盛り付けに失敗したり、散々だったことを覚えています。

1980年2月、東京・上野動物園のパンダ、カンカンの新しい花嫁として北京動物園から贈られたホアンホアン(歓歓)が一般公開された =朝日新聞社

 アルバイトが終わり下宿に帰って自炊の準備をしながら、あやまって包丁で指を切ってしまうというおまけもつきました。自分では父の宣告を冷静に受け止めたつもりだったのですが、内心はかなり動揺していたのでしょう。

 当時、防衛庁では翌年の採用予定者を朝霞駐屯地で行われる自衛隊中央観閲式に招待して見学させたり、北海道へ部隊見学に連れて行ったりしていました。翌年4月に確実に入庁させるため、定期的に採用予定者の様子を把握するという目的があったのでしょう。

 そうしたイベントの一つに防衛庁採用のキャリアが一堂に集まるパーティがあり、採用予定者も参加して挨拶させられました。出身地や出身校などに触れて簡単に自己紹介するのですが、終了後に山形出身だというキャリアの先輩から「お父さんが随分心配しているようだな」と言われました。私より20年以上も年次が上で、当時官房の審議官を務めておられた大先輩でした。

 父が私の入庁に反対しているということは確実に彼のところまで伝わっていた訳ですが、それが私の採用にどう影響したのかはわかりません。その後、新社会人の生活が始まる直前の翌1981年(昭和56年)3月に自分の物を持ち出すために一日だけ実家へ帰ることを許されましたが、その時も父との会話は一切ありませんでした。

 そもそも父親の頑なな反対を押し切ってまで防衛庁を選んだのは、自分の「天邪鬼」な性格のためだったように思います。当時国家公務員を目指す学生の間で人気があったのは、現在と同様、大蔵省や通産省でした。自治省や厚生省などにはそれぞれの行政分野に高い問題意識を持った学生が集まっていました。そんな中で防衛庁は、お世辞にも人気官庁とは言えませんでした。

 終戦から既に35年経っていたとはいえ私の父のような反戦感情を持つ人はまだ多かったし、戦争放棄・戦力不保持を宣言した日本国憲法の下で自衛隊はまだまだ社会的に微妙な存在でした。多くの人たちが内心では国にとって必要な仕事だと認めながらも自らはそれにくみしない、日本社会にそんな雰囲気が色濃くあったような気がします。

1979年10月、千葉・成田での国際反戦デー集会 =朝日新聞社

 当時の私の中には、格好をつけて言えば「必要な仕事なのに誰も進んでやろうとしないのなら、自分がやってやろう」というような気分がありました。こういう性格は明らかに父親譲りでしたが、父と正面から対決して説得しようとしなかったため、私の選択について父の理解を得ることは出来ませんでした。

 親の反対を押し切って自分がやりたい事を通そうとするのであれば、親を説得するのが責任ある行動ですが、私は父の頑国さをよく知っていたので正面から説得を試みても無駄だと思っていました。むしろ、父と私が対立することで家の中がぎくしゃくして面倒な事になるのは避けたいと考えていました。

 結果的に、父の同意を得ないまま私が防衛庁に入ったことで家庭内にはさらに大きなしこりが残ってしまったのですが、次男坊だった私には家族に対する甘えがあったのだと思います。

 その後、この勘当状態は長く続きました。私は役所に入って一年目の春に高校の同窓生だった家内と結婚したのですが、父は結婚式にも出席しませんでしたし、孫が生まれても会おうとしませんでした。盆暮れに帰省すると同じ山形市内にあつた家内の実家に滞在し、父の不在を見計らって私の実家に寄って母や祖母に子供たちの顔を見せたりしていました。

 この勘当は、長く一緒に暮らしていた祖母が亡くなるまで続きました。祖母の葬儀への参列を許されたのをキッカケとして勘当状態は自然に解消されましたが、気がつけば10年以上の時間が経っていました。

失敗から得た多くの教訓

 こうして自分の父親の説得に失敗して始まった役人生活でしたが、その後の事を振り返っても失敗したことや叱られたことばかりが思い出されます。

 役所での最初の失敗は今も鮮明に覚えています。

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