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防衛庁5年目、上司から「名刺変えろっ」 自衛隊のあるべき姿めぐり悩む日々

連載・失敗だらけの役人人生② 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

インタビューに応じる黒江・元防衛事務次官=2月、東京・神田駿河台。藤田撮影

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

「名刺変えろっ」の先制パンチ

 私は37年に及ぶキャリアの中で、防衛庁(2007年に防衛省に昇格=編集部注)で自衛隊の運用を担当する部門に部員、課長そして局長として合計5年間勤務しました。これに内閣全体の危機管理を司る内閣官房安全保障・危機管理室での2年間の勤務を加えると、合わせて7年間にわたり北朝鮮のミサイル発射や大規模災害、重大事故などの事態対処の仕事を担当したことになります。事態対処の部署は、失敗と教訓の宝庫でした。

 最初に配属されたのは、入庁して5年目の1986年(昭和61年)6月、防衛局運用課研究班の部員ポストでした。「部員」というのは防衛省特有の名称で、旧軍の「参謀本部員」に由来するとされており、他省庁の課長補佐に相当します。運用課は自衛隊の部隊運用に関する政策を担当しており、研究班では有事対応の在り方や日米共同対処の在り方などについて研究していました。

 当時、ソ連のアフガン侵攻以来再び冷戦が激化していましたが、極東における東西の対峙構造はまだまだ安定しており、自衛隊の実動と言えば領空侵犯を防ぐためのスクランブル待機・発進や災害時の救援派遣に限られていました。後年、国連PKOを始めとして自衛隊が活動する機会が増えるにつれて危機管理や事態対処の業務の比重も増していったのですが、この頃はまだ目前の危機への対応よりも将来起こるかも知れない事態への対処に関する検討・研究が運用課の中心業務でした。

 そんな運用課に着任してまだ間もない頃、上司の課長へ担当業務について初めて説明した時の事です。おそらく自分が担当していた各自衛隊の年度防衛計画についての説明だったのだと思いますが、内容についての記憶はもはや定かではありません。とにかく、私が説明している途中で急に課長の顔つきが険しくなったかと思うと、いきなり「名刺を見せてみろっ」と怒鳴られたのです。

※写真はイメージです

朝日新聞社

 私が戸惑いながら「防衛庁部員黒江哲郎」と印刷された名刺を出すと、「こんな説明しかできないなら『防衛庁部員』なんて肩書はやめて『内局部員』に変えろっ」と叱りつけられました。何が課長の気に障ったのかわからず、その後は説明を続けようとしても取り付く島もなく、ほうほうの体で課長室から転がり出てくるのがやっとでした。

 当時、私も含めて内部部局のシビリアン(文官)の間では、防衛問題に関して国会やマスコミで追及されないように自衛隊を厳しく管理するという雰囲気が支配的で、有事に必要となる制度を整備したり、現場のニーズを施策化したりするという積極的な意識は希薄でした。一方で、私を叱った課長はちょっと変わっていて、内局のキャリア文官であるにもかかわらず「内局」あるいは「内局的な考え方」が嫌いという「難しい人」であることが徐々にわかってきました。

 その後、その課長が内局のことを「仕事しない局」、「政策ない局」などと椰楡するのを頻繁に耳にしました。またある時には、先輩が「いま自衛隊の計画を審査しています」と言ったところ「何だ、その審査っていうのはっ」といきなり怒り出した場面にも出くわしました。

 そうした経験を通して、「名刺を変えろっ」というのは、新米部員に対して「自分たちがやらねばならない仕事をよく考えろ」という先制パンチだったのかなと考えるようになりました。自衛隊に対するネガティヴチェックが仕事だという小姑のような感覚は捨てろ、課題に正面から向き合い自衛隊のあるべき姿を考えて仕事するのが本当の「防衛庁部員」だ、という意味だと理解しました。

自衛隊の「あるべき姿」とは

 しかし、この「あるべき姿」が難問でした。それが何なのかなかなかわからず、その後何度も課長の虎の尾を踏むことになりました。

 その頃、各幕僚監部(防衛庁で自衛隊を管理する陸海空それぞれの「制服組」の組織=編集部注)の中には「自衛隊には有事の際に敵と戦うために必要な権限が与えられていない」とか「国を挙げて有事に対処するために必要な法制や方針が定められていない」というような不満がありました。こうした各幕の考え方に寄り添えということかと思って有事法制の欠缺といった問題を提起すると、「ないものねだりだ」「不平不満ばかり言っていても何も変わらない」と叱責されました。

 また、自衛隊の図上演習シナリオについて「自己満足だ」と叱られたこともありました。当時は、自衛隊に防衛出動命令が下されるまでの一連のプロセスが明確化されていなかったため、演習は「外国が攻めてきたためともかく防衛出動が下令された」というところから始まっていました。課長は、その点を捉えて「そんなのは自己満足で意味がない」と言うのです。

 確かに、防衛出動下令後の行動を訓練することは部隊レベルの戦術技量の向上には有益です。しかし、防衛庁中央のスタッフ機構の演練項目としては物足りません。本来なら、他国軍隊のどのような行動から侵略の兆候を察知するのか、その情報をどうやって防衛庁長官や総理に伝達するのか、防衛庁長官や総理の決断には何が必要か、国会の承認を得るためには何が必要か、それにはどの程度の時間を要するのか、関係省庁とはどうやって調整するのか等々中央ならではの課題についての演練が必要なのですが、いかんせんそうした手順はどこにも定めがありません。

 そこから法制度が整っていないという不平不満につながるのですが、課長が言う通り「国が悪い」と言って思考停止していても何の意味もありません。他方で、実際に法律を整備するには実務的に作業しているだけでは足りず政治レベルの機運の盛り上がりが必要ですが、いわゆる55年体制の下ではそのような機運は到底期待できませんでした。そんなこんなでとてもフラストレーションの溜まる毎日を過ごしていたのですが、新中央指揮システムの仕事に携わるようになってからようやくヒントを得ることが出来ました。

 当時、防衛庁は六本木にあつた庁舎を市ヶ谷に移転しようと計画しており、市ヶ谷新庁舎における中央指揮システムの設計が課題となっていました。

六本木から防衛庁を移転する工事が進む市ケ谷。奥は陸自駐屯地=1993年。朝日新聞社

 当初、私は漠然と統合幕僚会議(かつて陸海空自衛隊の統合運用を担った組織=編集部注)や各幕が部隊運用を行うためのシステムとして考えていたのですが、課長の尾を何度か踏んでいるうちに総理大臣や防衛庁長官の意思決定を支援するためのシステムだと考えるようになりました。部隊指揮官のレベルではなく総理や防衛庁長官が自衛隊の行動についてどうやって意思決定するのか、という点こそが課長の問題意識なのではないかと思い当たったのです。

 本人に聞いても明確な答えは返ってこなかったので私の勝手な解釈だったのかも知れませんが、そうした問題意識で仕事をするようになってからは少なくとも叱られる回数は減りました。

 自衛隊の行動は総理や防衛庁長官の命令に基づくものであり国家の意思を体現するものだという考え方は、今でこそ政府内外に広く共有されていますが、30数年前には防衛庁内でも明確には意識されておらず、各幕と共有するのにも長い時間を要しました。総理や防衛庁長官が自衛隊を動かすというイメージを持つことすら難しいほど、軍事に対する忌避感が社会に蔓延していたのだと思います。

 10余年後に庁舎の市ケ谷移転が完了した際には、我々の議論を踏まえて防衛庁長官や場合によっては総理大臣も活用できるような新中央指揮システムが完成しました。しかし、施設は完成しても、総理の意思決定を支えるスタッフ組織の充実、情報機能の充実強化、統合運用の強化などは依然として課題として残されました。

 平成時代の30年間を通じて、戦略情報を一元的に扱う情報本部の創設(1997年)、政府の危機管理機能を束ねる内閣危機管理監の創設(1998年)、事態対処法制の整備(2003年~2004年)、三自衛隊の指揮運用を一元的に補佐する統合幕僚長及び統合幕僚監部の創設(2006年)、防衛省への昇格(2007年)、そして総理に対する補佐機構である国家安全保障会議(2013年)・国家安全保障局(2014年)の新設、平和安全法制の整備(2015年)などが逐次行われ、総理や防衛大臣が自衛隊の行動について意思決定するために必要な仕組みが整えられました。

 ちなみに、2004年(平成16年)に事態対処法制(有事法制)が整備された当時、この立法作業を担当した内閣官房副長官補(大森敬治氏=編集局注)は私を叱った課長でした。

F15ミサイルの誤発射

 ようやく運用課部員としての仕事に慣れた1986年(昭和61年)9月4日の朝、日本海に飛来した国籍不明機に対してスクランブル発進しようとした百里基地所属のF15戦闘機に搭載した空対空ミサイルのサイドワインダーが発射され、基地内に着弾して破裂するという事故が発生しました。

空自戦闘機F15のミサイル誤発射を伝える1986年9月5日付の朝日新聞朝刊1面

 発生は朝の8時半頃だったにもかかわらず、官邸報告やマスコミヘの公表は午後になってから、しかも地元住民からの問い合わせを受けてようやく公にされたという今なら到底許されないようなおっとりした対応ぶりでした。事故の報告は午前中に防衛庁本庁へ伝えられ善後策を検討する会議が開かれたのですが、事実関係を確認しないと責任を持って報告や公表はできないという議論だったように記憶しています。

 その日の午後、「カミソリ」の異名で知られた当時の官房長官(後藤田正晴氏=編集部注)が事案の経緯について詳しい説明を求めているとの連絡が入り、防衛庁の官房長が対応することとなりました。その際、運用課からも誰か一緒に来いと言われ、たまたま手が空いていた私が同行することとなりました。総理官邸の官房長官室へ入るのは私にとって初めての経験でした。

 官房長官は、我々が入室するなり「とにかく第一報が遅すぎるっ」と我々と官房長官秘書官を厳しく叱責されました。冷静な随行者なら後から長官の発言を出来る限り克明に思い出して役所に報告するところですが、私はテレビでしか見たことがなかった官房長官の顔を初めてナマで見たという興奮と緊張で舞い上がってしまい、最初の一言くらいしか覚えておらず、帰庁してから相当冷やかされました。

後藤田正晴官房長官=1987年。朝日新聞社

 いま仮にミサイルの誤発射という深刻な事故が起きて同じような対応をしたとしたら、「なぜ官邸への報告が遅れたのか」「なぜ公表まで半日もかかったのか」「事故を隠蔽しようとしたのではないか」等々、防衛庁や総理官邸の危機管理体制の甘さが強く批判されたことでしょう。当然、官邸の防衛庁に対する叱責もずっと厳しいものになっていたものと思われます。しかし、当時は「やはり自衛隊は危険な存在」といった批判が主で、危機管理面の指摘はほとんどありませんでした。ある意味牧歌的な時代でした。

 その後の調査で、スクランブル発進しようとしてエンジンをかけたところ、機体とミサイルをつないでいるアンビリカルケーブルに電流が流れ、発射の信号が送られてしまったことが判明しました。スクランブル待機中なのでいつでも使えるように安全装置が外されていたため、そのままミサイルが発射されてしまったということでした。電流が流れた理由は不明で、当時「浮遊電流」などと称していたように記憶しています。ともかく、民間に被害が及ばなかったのは不幸中の幸いでした。

自衛隊初の警告射撃

 翌1987年(昭和62年)12月9日の午後、運用課に航空幕僚監部の作戦室から一本の電話がかかってきました。空自担当の部員が席を空けていたため、私がたまたま電話をとったところ、受話器から「先ほど沖縄本島上空で領空侵犯を行ったソ連軍機に対して警告射撃を実施しました」という緊迫した声が飛び込んできました。

 自衛隊の歴史上初めてソ連機相手に実弾を使用したことを告げる電話だったのですが、聞いた瞬間は内容を即座に理解出来ずに呆然としたというのが正直なところです。我に返った後は事実関係の確認、関係部署との連絡、対外応答要領の作成等に忙殺されることとなりました。当時の運用課は総勢で10人余りの小ぶりな組織だったので、何か事態が生じると担当業務に拘わらず全員が一体となって対応するという気風がありました。

 本件も発生直後から国会やマスコミで大きな議論となり、課員総出で対応することになりました。マスコミなどでは、当初、実弾の使用が適法であったか、射撃が安全に行われたかなど空自戦闘機側の行動が適切だったかという点に関心が集まりました。しかし、事実関係の確認が進み、領空を侵犯したソ連軍の電子偵察機Tu16(バジャー)の行動が極めて特異で悪質だったことが明らかになるにつれ、議論の焦点はスクランブル機がもっと強い措置をとれなかったのかという点に移りました。

領空侵犯したソ連軍機に対する空自戦闘機の警告射撃について伝える1987年12月10日付の朝日新聞朝刊1面

 本件に対応した空自戦闘機は、ソ連機の沖縄本島接近に対して直ちにスクランブル発進し、無線や機体信号によって警告を行いましたが、ソ連機はこれを無視して飛行を続け沖縄本島上空と沖永良部島一徳之島間の領海上空を三度にわたって侵犯しました。従来の領空侵犯は島嶼部周辺の領海上空をごく短時間かすめるようなものが大半でしたが、本件は領海のみならず沖縄本島に所在する米軍基地や自衛隊基地の上空を横切る形で7分間にわたって飛行するという特異なものでした。

 空自戦闘機は信号射撃を三度行いましたが残念ながら効果はなくソ連機は飛び去り、政府は速やかに外交ルートを通じてソ連に厳重に抗議しました。ソ連は悪天候と計器の故障による事故と説明し、後日搭乗員を処分したことを公表しましたが、これだけでも当時のソ連としては異例の対応でした。

 もともと保守層の一部には、自衛隊機がスクランブル発進を繰り返しても領空侵犯を完全には防ぎ切れないことや、事後に外務省が相手国政府に抗議してもうやむやで終わるケースが多いことに対する不満がくすぶっており、ソ連機の行動が特異で悪質であったことが判明すると、より厳格で効果的な領空侵犯対処を自衛隊に求める声が上がりました。

 当時我々の上司だった防衛局長は、「ミスター防衛庁」と呼ばれたレジェンド(西広整輝氏=編集部注)でした。局長は翌日の国会審議で「我々にとっては遺憾な領空侵犯事件である」「極めて遺憾である」と繰り返し答弁しました。後で本人が語っていたところによると、武器使用などを正面から議論してこなかったのを防衛庁だけのせいにするのは筋違いで、政治の怠慢でもあるという意図を込めて「遺憾だ」と答えたとのことでした。

「ミスター防衛庁」と呼ばれた西広整輝・元防衛事務次官=1994年。朝日新聞社

 一方、事務方の我々は、「住民に被害を与えないように海上で射撃した」とか「相手に危害を加えないように射撃した」とかとりあえず問題にならないような無難な国会答弁を書くことしか頭にありませんでした。

 しかし、本事案を冷静に考えれば、対領空侵犯措置で行動している空自機が不測事態に臨んで具体的にどこまで武器を使用できるのかを議論しマニュアル化する大きなチャンスだった訳です。政治レベルにも責任を分担してもらいながらそのチャンスを生かそうという局長のしたたかな姿勢は、まだ若手部員だった私の目にはとても新鮮に映りました。

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