黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
連載・失敗だらけの役人人生② 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
私は37年に及ぶキャリアの中で、防衛庁(2007年に防衛省に昇格=編集部注)で自衛隊の運用を担当する部門に部員、課長そして局長として合計5年間勤務しました。これに内閣全体の危機管理を司る内閣官房安全保障・危機管理室での2年間の勤務を加えると、合わせて7年間にわたり北朝鮮のミサイル発射や大規模災害、重大事故などの事態対処の仕事を担当したことになります。事態対処の部署は、失敗と教訓の宝庫でした。
最初に配属されたのは、入庁して5年目の1986年(昭和61年)6月、防衛局運用課研究班の部員ポストでした。「部員」というのは防衛省特有の名称で、旧軍の「参謀本部員」に由来するとされており、他省庁の課長補佐に相当します。運用課は自衛隊の部隊運用に関する政策を担当しており、研究班では有事対応の在り方や日米共同対処の在り方などについて研究していました。
当時、ソ連のアフガン侵攻以来再び冷戦が激化していましたが、極東における東西の対峙構造はまだまだ安定しており、自衛隊の実動と言えば領空侵犯を防ぐためのスクランブル待機・発進や災害時の救援派遣に限られていました。後年、国連PKOを始めとして自衛隊が活動する機会が増えるにつれて危機管理や事態対処の業務の比重も増していったのですが、この頃はまだ目前の危機への対応よりも将来起こるかも知れない事態への対処に関する検討・研究が運用課の中心業務でした。
そんな運用課に着任してまだ間もない頃、上司の課長へ担当業務について初めて説明した時の事です。おそらく自分が担当していた各自衛隊の年度防衛計画についての説明だったのだと思いますが、内容についての記憶はもはや定かではありません。とにかく、私が説明している途中で急に課長の顔つきが険しくなったかと思うと、いきなり「名刺を見せてみろっ」と怒鳴られたのです。
※写真はイメージです
私が戸惑いながら「防衛庁部員黒江哲郎」と印刷された名刺を出すと、「こんな説明しかできないなら『防衛庁部員』なんて肩書はやめて『内局部員』に変えろっ」と叱りつけられました。何が課長の気に障ったのかわからず、その後は説明を続けようとしても取り付く島もなく、ほうほうの体で課長室から転がり出てくるのがやっとでした。
当時、私も含めて内部部局のシビリアン(文官)の間では、防衛問題に関して国会やマスコミで追及されないように自衛隊を厳しく管理するという雰囲気が支配的で、有事に必要となる制度を整備したり、現場のニーズを施策化したりするという積極的な意識は希薄でした。一方で、私を叱った課長はちょっと変わっていて、内局のキャリア文官であるにもかかわらず「内局」あるいは「内局的な考え方」が嫌いという「難しい人」であることが徐々にわかってきました。
その後、その課長が内局のことを「仕事しない局」、「政策ない局」などと椰楡するのを頻繁に耳にしました。またある時には、先輩が「いま自衛隊の計画を審査しています」と言ったところ「何だ、その審査っていうのはっ」といきなり怒り出した場面にも出くわしました。
そうした経験を通して、「名刺を変えろっ」というのは、新米部員に対して「自分たちがやらねばならない仕事をよく考えろ」という先制パンチだったのかなと考えるようになりました。自衛隊に対するネガティヴチェックが仕事だという小姑のような感覚は捨てろ、課題に正面から向き合い自衛隊のあるべき姿を考えて仕事するのが本当の「防衛庁部員」だ、という意味だと理解しました。
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