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課長になり高揚も束の間の防衛庁18年目 野中官房長官の叱責、初の臨界事故も起き… 

連載・失敗だらけの役人人生③ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

拡大神奈川県内での水難事故を伝える1999年8月14日の朝日新聞夕刊1面

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

官房長官に叱られた水難事故

 1999年(平成11年)の7月に防衛庁で運用局運用課長を拝命し、部員時代以来ほぼ10年ぶりで再び運用課に勤務することとなりました。自分では「昔取った杵柄」で土地勘はそこそこ持っているつもりだったのですが、10年の間に内外情勢は激変し、自衛隊の行動も大きく変化していました。

 国内では1995年(平成7年)に阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を相次いで経験し、国民の間に危機管理意識が醸成されるとともに、自衛隊の組織力・行動力に対する信頼感と期待感が高まりました。国際社会ではベルリンの壁の崩壊から10年が経ち、湾岸戦争や北朝鮮によるミサイル開発、不審船事件などを通じて、冷戦終結直後に高まった平和への期待感がしぼみ、国際情勢の流動化が明らかとなっていました。国際社会の安定化に寄与するため、自衛隊が国連PKOなどの形で海外に派遣されて活動する機会も拡大しつつありました。

 こうした中で入庁18年目にして初めて課長ポストに補職された私は、与えられた責任の重さを意識しつつも大いに高揚していました。しかし、就任直後から立て続けに発生した様々な事案のため高揚感はあっという間にどこかへ消え去り、相次いで発生する各種の事案に無我夢中で対処する毎日となりました。

 課長に任ぜられてひと月も経たない8月14日の土曜日、神奈川県足柄上郡玄倉川(くろくらがわ)の中州でキャンプ中の一行が増水した川の水に流されて13名の犠牲者を出すという玄倉川水難事故が発生しました。前日から降り出した大雨のため玄倉川が増水し、上流のダムでやむを得ず放水を開始したところ、当局の再三の警告にもかかわらず中州にとどまっていた行楽客の一行が増水した川の中に取り残されたという事案でした。

拡大玄倉川水難事故で神奈川県警のゴムボートで救出された女の子=1999年8月15日、神奈川県山北町。朝日新聞社

 現場にはテレビ局のクルーが駆けつけ、一行が力尽きて流されるまでの一部始終の映像がテレビで放映されました。一行の中には、テントの支柱につかまって濁流に抗しながらヘリでの救出を求めて指を空に向けてくるくると回す者もいました。雨雲でほとんど視界が効かないという当日の悪天候の下では自衛隊のヘリを飛ばすことはできず、休日出勤したオフィスで私はその映像を居心地の悪い気分で観ていました。

 このテレビ報道が大きな反響を呼んだこともあり、後日、警察庁の警備課長などと一緒に内閣官房長官(野中広務氏=編集部注)に呼ばれ、自衛隊や消防、警察などの対応について厳しく追及されることとなりました。なぜヘリを飛ばさなかったのか、基地から飛んで行けないなら現場近くまで車で運んで飛ばせば良かったではないか、農薬散布ヘリなどはそうやっているのに自衛隊や警察はなぜ出来ないのか、などと問い詰められました。さらに、ヘリが無理なら水陸両用車は使えなかったのか、戦車は川を渡れるのではないか、とまで問われて叱責されました。

拡大野中広務官房長官=1998年。朝日新聞社

 もちろん、ヘリの運航基準や戦車の性能などについて説明はしたのですが、官房長官は最後まで得心が行かない様子でした。その時は正直「なぜそんな無理を言うのか」と思いましたが、後になってから、官房長官が問いたかったのは戦車を使わなかった理由などではなく、本当に先入観なしにあらゆる手段を検討したのかという点だったのではないかと気がつきました。確かに、私自身もヘリ以外の選択肢は思い浮かばず、「結果を出すために使えるものはすべて使う」というアプローチが出来ていたとは言えませんでした。

 災害救助を含め、危機管理は結果が全てです。政治家は選挙民から常に具体的な結果を求められるため、結果を出すことに対して極めて敏感です。これに比べて防衛庁を含め中央官庁の役人は直接の現場を持っておらず、現場で求められる結果をイメージしにくい立場にあります。このため、ともすれば役人は結果よりも制度や手続き、手順を重視する傾向に陥りがちだと言えます。さらに、冷戦時代の防衛庁の主要課題は「自衛隊の運用」よりも「防衛力整備」だったため、なおさら「実動によって結果を出す」という意識が乏しかったように思います。

 ところが、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件への対応、さらにはPKOや国際緊急援助活動など自衛隊の実動の機会が増え、「防衛力整備から自衛隊の運用へ」「存在する自衛隊から働く自衛隊へ」という変化が進みました。玄倉川水難事故はそうした変化のさなかに発生した事案であり、官房長官からの叱責によりそれまでの自分に欠けていたものを突き付けられたように感じました。

 人命がかかった場面ではプロセスは二の次で、命を救うという結果こそが最も重要です。厳しい言い方をすれば、「自分はこんなに努力した」とか「規則に従えばここまでしか出来なかった」というのは言い訳に過ぎず、求められている結果を出せなければ何もやらなかったのと一緒だということになります。

 もちろん、当時の自衛隊や警察、消防の能力を客観的に考えれば、中州に取り残された人々を救出するのは極めて困難だったと言わざるを得ません。しかし、私自身はこの一件をきっかけとして、手続きや手段などの固定観念にとらわれずに「結果を出す」ということを意識するようになりました。


筆者

黒江哲郎

黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官

1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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