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「三巨頭vs.防衛庁長官」事件発生! 仕事はすべて板挟み 

連載・失敗だらけの役人人生⑨ 元防衛事務次官・黒江哲郎

黒江哲郎 元防衛事務次官

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

左から1998~99年の小渕首相、中曽根元首相、石原東京都知事=朝日新聞社

いかにうまく挟まるか

 「うまく板挟みになるんだ」「板挟みになりながら自分が泳ぐ余地を確保するのが大事なんだ」

 1981年(昭56年)4月1日の夜、初めての「社会人飲み」に誘ってくれた防衛庁の先輩上司が、六本木のとある居酒屋で杯を傾けながら語った言葉でした。同じ職場に配属された同期生とともに上司の教えに神妙に耳を傾けていたのですが、その日に役人としてのスタートを切ったばかりの私には何のことやらチンプンカンブンでまったく理解できませんでした。

 既に紹介した通り、私は入庁と同時に防衛局計画官室という課に配属されました。この課は、ごく大雑把に言えば、事業主体である陸海空の各幕僚監部と議論して合理性ある適切な防衛力整備計画の案を策定するとともに、財政当局との間でその案について調整を行い、関係各方面がみな納得する内容と金額の計画を策定することを任務としていました。

 「みんなが納得する」「みんなが受け入れる」と言うのは容易ですが、実現するのは簡単なことではありません。我々に「板挟み」を教えてくれたのは、当時計画官室の先任部員(ナンバー2=編集部注)を務めておられた経験豊富な先輩でした。

 防衛力整備は、各幕と大蔵省(当時)の双方にそれぞれ正当な動機と主張がある中で、双方ともに受け入れ可能な線で折り合いをつけねばならないという典型的な「板挟み」の仕事です。間に立つ人は、間違っても双方にいい顔をしてはなりません。各幕に対して「その要求は満額必ずとれる」と言い、大蔵省に対して「その金額の中でおさめられる」と言い続け、両者がともに過剰な期待を抱いた挙句、調整し切れずご破算になるというのが最悪の結果だからです。

1984年度予算折衝で大蔵省側(左)から原案内示を受ける防衛庁側=1983年12月、東京・霞が関。朝日新聞社

 調整者は、双方に対してやや渋い顔をして「あなたの主張は理解するが完全勝利は無理ですよ。どこかで妥協が必要ですよ」と説得することで、板挟みになりながらも自分が泳げるスベースを作り出さなければなりません。そうやって作ったスペースの範囲内で、改めて双方に対していわゆる「落としどころ」の案を打診し、関係者の本音と許容可能な(あるいは不可能な)ぎりぎりのレッドラインを見極めながら、徐々に両者が納得できる線へ軟着陸を図っていくのです。

 最初はこうした仕事のやり方を理解出来ませんでしたが、防衛力整備部門での調整を幾度となく経験し、徐々に実感できるようになりました。さらに、役人人生の中では防衛力整備にとどまらず様々な場面で板挟みに遭うことになりました。それらの多くは例によって苦い失敗で、いかにうまく板に挟まるかというのが役人の大きな課題だと身をもって思い知らされることになりました。

「都庁へ机を持って行けっ」

 全く予想できない形で最低最悪の板挟みに遭ってしまったのは、防衛庁で運用課長になりたての頃、1999年(平成11年)の夏のことでした。

 毎年9月1日は関東大震災にちなんで防災の日とされ、国も都道府県も一斉に防災訓練を行います。特に、阪神淡路大震災の際に自治体と自衛隊との連携の重要性が脚光を浴びて以来、ほぼ全ての地方自治体が自衛隊と合同で防災訓練を実施するようになっていました。東京都とその周辺の主要自治体も政府と連携しながら毎年実動訓練を行い、自衛隊もこれに参加していました。

 この年4月に新たに就任した都知事(石原慎太郎氏=編集部注)は自衛隊の活用に極めて熱心で、自衛隊の大々的な参加を得て従来よりもはるかに大掛かりな実動防災訓練を都内で実施したいと考えていました。同年8月のある晩、都知事は大勲位の元総理(中曽根康弘氏=編集部注)とともに時の内閣総理大臣(小渕恵三氏=編集部注)と会食した際にこの件を話し合い、翌2000年(平成12年)に自衛隊も参加する実動形式の大規模防災訓練を都内で実施するとの構想を打ち出しました。

(右)1999年9月25日付の朝日新聞朝刊の記事。(左)同年に記者会見する石原慎太郎・東京都知事=朝日新聞社

 報道各社は一斉に飛びつき、早速その晩に「都内で自衛隊も参加する大規模防災訓練実施へ」というニュースが流されたのです。新米運用課長の私は、このニュースを聞いて「これは来年に向けて忙しくなるなあ」と漠然と思っただけで、この件のもう一つの側面には全く思いが至りませんでした。それは、「面子」という厄介な問題でした。

 本件の発案者が、熱心な自衛隊活用論者の都知事だということは報道からも明らかでした。自衛隊の最高指揮官は総理ではありますが、防災訓練への参加についての担当閣僚は防衛庁長官です。本件は、都知事が防衛庁長官の頭越しに勝手に総理と直談判してマスコミに打ち上げたという構図になってしまったのです。どんな人でも頭越しにいきなり上司との間で直取引をされたら良い気持ちはしないし、怒り出す人も多いでしょう。まして大臣は政治家なのですから、推して知るべしです。

 さらに私にとって具合が悪かったことに、この構想は既に東京都の防災担当から運用課へ内々に伝達済みだったのです。しかし、翌年の案件だったこともあり、そのうちに公表時期などについても事務的に事前調整があるのだろうと思い込んでいたため、大臣への報告はなされていませんでした。

 よく考えてみれば、本件は政治家である都知事のアイディアなのですから、事務的調整なしに突然公表される可能性は十分にあつた訳です。そこに思いが至らずに、都からの耳打ちをそのままにしておいたのは迂闊でした。

 このため、報道の後におっとり刀で説明に駆けつけた私は、防衛庁長官から「都庁へ机を持っていけえっ」と厳しく叱責されました。自分に説明もしないで都とよろしくやっているのなら、という意味だったのでしょう。

 しかし、自衛隊が防災訓練に参加すること自体は防衛庁にとっても悪い話ではないし、三巨頭が一致して推している以上は行政的にも政治的にも待ったがかかる理由はありません。その意味するところは、大臣の面子は一向に回復されないまま、翌年の大規模実動訓練に向けて準備が進み始めるということです。

 ここに至って事柄の重大性と筋の悪さに気づいて青くなった私は、庁内の幹部や自民党関係者などに善後策を相談してまわったのですが、相手が三巨頭ということもあってか残念ながらどこからも良い知恵は得られませんでした。それどころか、「都知事は強烈だぞ。お前、グズグズしてないで早く大臣に鈴をつけないと大変なことになるぞ」とカツを入れられる始末でした。

都庁かと思えば沖縄へ?

 困惑しきっていたところ、数日後、予想もしていなかった方向から事態を決定的に悪化させる追い打ちを喰らいました。

 それは、翌年の訓練ではなく、その年の9月1日の防災訓練に関する新聞記事でした。「護衛艦、都の防災副練参加へ」という見出しがついた一面トップのその記事は、帰宅困難者の避難輸送のためにその年9月1日の東京都総合防災訓練に初めて自衛隊の護衛艦が参加するという内容でした。

 記事が出た朝、防衛庁長官の秘書官が「おかんむりだよー」と運用課の部屋へ飛んできました。東京都が調整中の計画案を漏らしてしまったらしく、担当課長の私もまだ詳しく知らないような内容で、当然大臣は何も知らされていませんでした。

 論調はレトロな自衛隊警戒論で、内容も細部が不正確なヒマネタ風の記事でした。既に世間では自衛隊の防災訓練参加を問題視する雰囲気は薄れていたので、普通なら無視されたかも知れないような記事でしたが、翌年の訓練の件の直後だったのでそれでは済みませんでした。呼びつけられた私は、大臣にこっぴどく叱り飛ばされました。

 その後、海幕と協議して使用する護衛艦を差し替えたりしたのですが、大臣の怒りは収まらず「お前なんか沖縄に飛ばしてやるっ」とも怒鳴りつけられました。私は大臣の怒りの大きさは受け止めたものの、沖縄云々については真に受けておらず「東京都から沖縄か。一足飛びにずいぶん遠くまで飛ばされちゃったなあ」などと苦笑いして済ませていました。

 ところがその日の夕方、官房長に呼ばれ「大臣と何があったんだ? お前を沖縄に飛ばせって言うのでとりなしておいたけど」と言われたのです。官房長と言えば職員人事の責任者です。この時は、「大臣は本気で沖縄に飛ばすつもりだったんだ」とさすがに冷や汗が出ました。

辺野古埋め立てを申請した防衛省沖縄防衛局に抗議する市民ら=2013年3月、沖縄県嘉手納町。朝日新聞社

 その晩帰宅して家内に話したところ「沖縄? いいわね。ついて行くわよ」と微妙に的を外した対応をされ、少しだけショックは和らぎました。そうは言っても9月1日には防災訓練を実施しないといけないので、その後も大臣に対して何度かリカバリーを試みたのですが、頑として説明を聞いてもらえませんでした。

 結局、その年の防災訓練を実施するために必要な大臣決裁は最後までもらえませんでした。一方、訓練そのものは例年通り実施したので、誰かに代決してもらったはずなのですが、細かいことは思い出せません,

 当時私は40歳を超えたばかりでしたが、「面子」の機微は理解していませんでした。それどころか、自衛隊が実動の防災訓練に参加して都内で活躍するのは防衛省にとって望ましい事なので、防衛庁長官を務めている人がよもやそれほど怒るまいとタカをくくっていました。

 都の構想を大臣まで事務的に説明さえしておけば展開は違ったはずですが、物事がここまでこじれてしまうとなかなか挽回することは出来ません。かくて私は初めての課長ポストで、大臣に睨まれて胃が痛くなるような8月を過ごしました。

 この年の8月と9月にトルコの大地震や東海村JCO臨界事故など内外で大規模災害や特殊災害が頻発し、それらへの対応に奔走しているうちに「三巨頭vs.防衛庁長官」事件(?)もいつの間にかうやむやになり、そのうちに内閣改造で大臣が交替したこともあって、私の首は何とかつながりました。仕事で板挟みに遭うことは珍しくありませんでしたが、この時ほど筋が悪くて苦しめられた経験は他にはありません。

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