細野豪志(ほその・ごうし) 衆議院議員
1971年(昭和46年)生まれ。2000年衆議院議員初当選(現在7期)静岡5区。総理補佐官、環境大臣、原発事故担当大臣を歴任。専門はエネルギー、環境、安保、宇宙、海洋。外国人労働者、子どもの貧困、児童虐待、障がい児、LGBTなどに取り組む。趣味は囲碁、落語。滋賀県出身
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
福島原発事故の発生からまもなく10年を迎える。私は首相補佐官や環境大臣として事故当初の対応にあたり、その後も福島の人々とともに「福島の復興」に取り組んできた。その歩みを『東電原発事故 自己調査報告』(2月28日発売、徳間書店)として刊行する。歴史法廷で罪を自白する覚悟を持って本書を書いた。その中から、県民健康調査として行われてきた甲状腺検査を通じて子供や保護者の不安に正面から向き合ってきた医師の緑川早苗氏との対談(司会は社会学者の開沼博氏)を「論座」で3回にわけて紹介する。私は政治家として福島県民の健康問題に重たい責任を背負っている。その立場から、甲状腺検査を継続する倫理的問題をここに問いたい。
開沼 最初にお伺いしますが、緑川先生はこれまで、著書でもオンラインでもあまりご自身のライフストーリー的なことをお話しなさっていませんよね。差し支えなければで構いませんが、ご出身は福島県内ですか。
緑川 奥会津の、只見川沿いにある過疎の町の生まれです。高校は会津若松の会津女子高校に進学して、それから県立福島医大に進学。卒業後はそのまま医大の内科(旧第三内科)に入局しました。
私が選択した専門領域が「内分泌代謝学」という一般的な知名度が低い病気の領域だったのもあって、震災前にずっと目指していたのは「福島県の内分泌の患者さんが、福島に暮らしながら東京、日本はもちろん、世界トップレベルの内分泌の診断治療を受けられるようにすること」でした。震災前までは本当に多くの患者さんを診させていただきながら勉強して、その生活に生きがいを感じていました。でも、震災後の甲状腺検査に関わってからは、私の中では全く別の人生が始まった感じにはなりましたね。
緑川早苗(みどりかわ・さなえ)宮城学院女子大学教授(臨床医学)。福島県会津出身。1993年福島県立医科大学卒業後、内分泌代謝専門医として診療。2011年原発事故後に始まった甲状腺検査に初期には検査担当者として、その後検査の責任者の一人として関わる。検査方法に疑問を感じ検査の改革を目指したが実現せず、2020年3月末に福島医大を退職。甲状腺検査に対する住民の疑問と不安に対応するためのNPO(POFF)を立ち上げ活動を開始した。
細野 まもなく震災と原発事故から10年が経過します。当初は福島に生活する方々の健康問題について、社会で多くの懸念の声があがっていました。原発事故直後のこと、そして健康被害の現状を先生は全体的にどうご覧になっているか、お話をしていただけますか。
緑川 事故が起こった当初は「チェルノブイリの再来」と言われたり、「レベル7相当」との報道が出ていたので、私たち医療従事者の間でも、「実際にどの程度被曝するか」を冷静に考えるより先に、恐怖が先立っていたのが現実だったと思います。
その中でも、チェルノブイリで報告されていた子供の甲状腺がんに対する懸念というのは、特に強かったんですけれど、幸い様々な人たちの努力で福島の原発事故は被曝線量という意味では非常に小さく、影響を無視できる程度だったことが分かってきました。それからは被曝のリスクは考えなくて良いと私たちも認識しましたし、今では住民の方々も、それで納得されている方が多いのではないかと考えています。
細野 2011年当時を思い起こすと、福島医大というのは地域医療の最後の砦だったわけですよね。そういう場の内部であっても、事故の動揺は大きかったですか。
緑川 小さいお子さんがいる看護師もたくさん働いていましたし、やはりスタッフの間でも強い恐怖と混乱はかなりあったと思います。
細野 あの時、長崎大学医学部の山下俊一先生が福島医大の副学長になられました。被曝医療の専門家として、事故直後から「福島は大丈夫ですよ」と強く発信された。批判もありましたが、私はあの時期に山下先生があのような役回りをしてくださったことが、その後も含めて福島に大きなプラスをもたらしたと思っています。当時の現場の受け止め方はどうだったんですか。
緑川 もともと福島医大では被曝医療を専門にするスタッフがいませんでしたので、当初は放射線科を専門とする先生や救急を専門とする先生方がその役割を担ってくださっていたんです。ただ、原子力事故を想定したような訓練やノウハウを勉強してきたわけではないということもあって、悪戦苦闘なさっていました。やはり山下先生をはじめ、長崎大学や広島大学などから多くの被曝医療の経験がある方々が来て助けてくださったからこそ、福島医大はあの局面を乗り越えられたと思っています。