黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
連載・失敗だらけの役人人生⑩ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
1986年(昭和61年)の通常国会に、防衛庁は自衛隊法第95条の改正と第100条の5の追加を内容とする法律案を提出しました。防衛庁が自衛官定数等の機械的な改正にとどまらず実体的な内容のある法案を提出するのは、久しぶりのことでした。自衛隊に対する世間の厳しい目を反映して、法案を国会に提出してもなかなか審議してもらえず、3年に1度くらいしか成立しないという状態が続いていたのです。
しかし、同年1月、貿易黒字解消のためフランス製要人輸送ヘリのスーパーピューマを政府専用機として輸入することとなったのを契機に、自衛隊にその運用権限を与えるため自衛隊法に条文を追加する必要が生じました。さらに、これに併せて、かねて懸案だった第95条の武器等防護の規定を改正し、艦艇やレーダー等を守る際にも武器を使用し得るよう措置することとなったのです。
事態対処法制や平和安全法制など数多くの厄介な立法作業を経験してきた現在の防衛省の尺度で見れば、この改正法案は多少の論点を含んではいるもののさほど難しいものではありません。しかし、何年ぶりかの実体改正だった上、法案審議のノウハウもほとんど伝えられていなかったため、当時の担当にとっては大ごとでした。入庁五年目で法規課の調整主任だった私は、運悪く担当の一人となってしまったのでした。
私の記憶では、法案提出の方針が決まったのは前年の12月末で、準備期間はほとんどありませんでした。年が明けてすぐに作業を開始し、1月のうちに法制局審査が始まりましたが、久しぶりの実体改正ということで法制局の参事官も気合いが入っていました。法制局の参事官は別名「一条三時間」と呼ばれるほど詰めが厳しかったのですが、この法案は重要部分が二条のみだったにもかかわらず審査は六時間ではとうてい終わりませんでした。
審査が佳境に入ると、朝持ち込んだ資料に関するやり取りが昼食と夕食をはさんで夜まで延々と続き、日が改まる頃に膨大な宿題を抱えて防衛庁に帰り着き、朝までかかって答を用意し、1時間ほど仮眠してまた法制局へ赴くという繰り返しでした。
※写真はイメージです
そんな泊まり込み生活を1週間ほど続けた末にやっとの思いで帰宅したところ、家内は大層心配して労ってくれましたが、私が脱いだ靴下は有無を言わさずゴミ箱行きとなりました。考えてみると、その間ずっと役所では風呂に入れず着の身着のままで過ごしていたのでした。その晩は死んだように眠り、翌朝日覚めて起き上がった途端にめまいに襲われ、そのまま倒れ込みました。
運悪くそこに味噌汁の入った鍋が乗ったストーブがあり、私の頭がぶつかったはずみで鍋はひっくり返り、中身は周囲に撒き散らされてしまいました。奇跡的に私も家族も味噌汁の直撃は受けずに済みましたが、気がつくと当時1歳だった息子が倒れた私の上に這い登って私の顔を覗き込んでいました。その時の子供ながらに不安げな息子の表情は、今も忘れられません。
体力を過信し、と言うよりも体力を気にする余裕もなく、仕事に追われた挙句に招いた悲喜劇でした。誰も火傷しなかったのは本当にラッキーでした。
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?