黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
連載・失敗だらけの役人人生⑪ 元防衛事務次官・黒江哲郎
翌2012年(平成24年)、オスプレイの沖縄配備について本格的な根回しを始めようとしていた矢先の4月に、モロッコで行われていた海兵隊の訓練中にオスプレイの墜落死亡事故が発生し、反対運動の火に油が注がれました。事故はこれだけにとどまらず、さらに同年6月、今度は米空軍特殊部隊所属のオスプレイがフロリダで訓練中に墜落してしまいました。
最悪のタイミングでしかもニカ月足らずの間に墜落事故が相次いだことからさすがに私も弱気になり、配備の時期を遅らせるべきではないかとも悩みました。しかし、大臣(森本敏氏=編集部注)は不退転の決意で予定通り配備を進めると明言した上、安全確認のため我が国も独自でモロッコとフロリダの事故の調査を行うという方針を示され、私が事故調査委員会の委員長に指名されてしまったのです。
普通、米軍が外国で起こした事故について、まして米軍が開発したオスプレイの事故について、同機のメカニズムに知見のない防衛省が原因調査をすることなどあり得ません。省内では事故調査の現実性を疑問視する向きもありましたが、大臣は「政府として説明責任を果たすためには絶対に必要だ」として譲りませんでした。航空機の専門知識もない文官の私は、この時ばかりは途方に暮れました。
しかし、時間は待ってくれないのでまずはメンバー選定に着手しました。各自衛隊の航空機の専門家はもとより、技術系最高幹部の技術監などの紹介で部外の航空工学の専門家にも声をかけました。技術監と一緒に最初にお願いに行った某国立大学教授からは、丁寧なアドヴァイスは頂けたものの、委員会参加については大学の理解を得られないからと婉由に断られました。
紆余曲折の末、同じ国立大学でもOBなので平気だと承諾して下さった名誉教授や、防衛大学校の名誉教授、さらには国土交通省航空局の課長さんの参加も得てなんとか委員会が発足しましたが、未だに大学は防衛嫌いなのかと驚かされました。
この官民混合の事故調査委員会で米国への調査出張を行い、シミュレーターなども使いながら米側から詳細な説明を受けました。さらに夏休み返上で、米軍内で進められていた事故原因調査の原案を分析し、乏しいながらも我々の知識・技術を総動員してそれを検証し、数ある疑問点を一つ一つ米軍に問いただしていきました。
この時期には、既にオスプレイが船便で山口県の岩国基地に搬入され、普天間基地への移動準備が開始されているという文字通り綱渡りの状況でした。マスコミはこぞってオスプレイの危険性を喧伝し、機体の動向をリアルタイムで追いかけていました。岩国基地での試運転の際に「いまオスプレイのプロペラが回り始めましたあ!」と某テレビのアナが絶叫していたのは今も忘れられません。
しかし、本当に危険な機体なら、兵員の防護に人一倍神経質な米海兵隊が採用するはずはありません。報道各社を回りその点も含めて説明に努めましたが、加熱した報道の勢いは止まりませんでした。当時の私は、普天間基地にオスプレイが到着するのが先か、自分の胃に穴が開くのが先か、というくらい追い詰められた心境でしたが、米軍の全面的な協力もあって9月上旬には奇跡的に報告書のとりまとめを終えることが出来ました。
そんなある日、以前の上司から沖縄県の民主党関係者に事故報告書の内容を説明してくれと頼まれ、オフィスで対応することとなりました。当時の民主党政権は既にオスプレイの沖縄配備を受け入れていたため、私は軽い気持ちで説明を引き受けました。ところが、訪間の本当の目的は説明を聞くことではなく、報告書に対する抗議と事故調査のやり直しの申し入れでした。
そんなことは全く知らされていなかった私は、説明を遮って抗議したり、委員会に地元関係者を入れて調査をやり直すよう強硬に主張したりする先方の態度に驚き、気が動転し、面談が物別れに終わって彼らが去った直後に貧血で倒れました。厳しいストレスにさらされ続けた挙句、突然予期せぬプレッシャーをかけられた結果の貧血でした。
それから半月ほどたつた10月初旬、私の胃に穴が開くよりも先にオスプレイは普天間基地への移動を完了しましたが、予備知識を何も与えられずにガス抜き役を押し付けられたことには、正直今も納得していません。
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