2021年02月26日
「責任を痛感」という言葉を安倍晋三前首相は在職中に何度繰り返したのだろうか。2020年7月12日付の「毎日新聞」にある「なぜ首相は「痛感」した責任を取らない? 安倍流処世術、軽さの原点」という記事によれば、「国会だけでも首相が自身の責任を語る文脈で「責任を痛感」と発したのは、12年の第2次政権発足から6月4日までに101回もある」という。口先だけで責任をまったく果たそうとしない人物が長年日本のトップにいること自体、まさに「ニッポン不全」の象徴と言えるのではないか。
無責任な政治は、純然たる世襲議員とまでは言えない菅義偉政権になっても変わらないだろう。以下に考察するように、政治も無責任体制を擁護する仕組みになっているからだ。この仕組み自体を変革することこそ必要なのである。もちろん、それだけではない。一人ひとりの意識を変えなければ、仕組みを変えることさえできない。だが、SNSの世界はそうした意識をもちにくくしている。
責任は、自発的・自律的主体の行動を前提に、その「自由」さにおいてなされた行為だからこそ、当の本人がその結果の責めを負うべきだという論理によって成り立っている。責任は、「刑事的責任」、「政治的責任」、「道徳的責任」などに区別することができる。別言すると、「人間は主体的存在であり、自ら選んだ行為に対して責任を負わなければならない」というわけだ(小坂井敏晶著『責任という虚構』)。
日本の場合、政治学者の丸山眞男は、明治憲法制定時から、「決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している」と指摘している(『日本の思想』)。だからこそ、大戦争を起こしておきながら、その「戦争責任」をとる者が見当たらず、責任の帰属する者だけでなく、責任追及する者や責任なる観念を問うシステムが全体として弛緩し、「無責任の体系」のようなものが第二次大戦後、とくにはびこることにつながった。
1984年に刊行された『失敗の本質:日本軍の組織論的研究』(現在は中公文庫)では、現場の自由裁量と微調整主義を許容するという日本的官僚制組織を長所として評価する一方、日本軍が階層構造を利用してこうした長所を圧殺したとしている。日本軍は、自らの戦略と組織を主体的に変革するための自己否定的学習(学習棄却)ができなかっただけでなく、作戦や統帥についてはその責任が問われることはなかった。それどころか、「仇討ち」の機会として、つぎの作戦にも責任者として参加を許されるといっためちゃくちゃな組織であったという。
筆者に言わせれば、「無責任の体系」の元凶は官僚にある。なぜならつぎのような推論が成り立つからだ。
「「責任」と「無責任」とが(前者の否定が後者という意味で)論理的に対立し、しかも可逆的であるとしよう。そうするとつぎのような推論が成り立つ。すなわち、国民は政治家を選択できるとすれば選択「責任」を負い、政治家は同様に官僚に対して選択「責任」を負うだろう。しかし、官僚はその種の「責任」を負わないから、こんどは「無責任」の連鎖が成立する。つまり、官僚は政治家に対して「無責任」であり、政治家は国民に対して「無責任」となる。結局、あたかも「メビウスの帯」のように、「責任」の連鎖は「無責任」の連鎖へと反転して国民に回帰する。」
これは、神武庸四郎著「デモクラシーからオクロクラシーへ」(『一橋論叢』, 2005)の注19にある記述だ。たぶんこの指摘は、「無責任の体系」が「無責任の連鎖」というかたちで構造化している現状にぴったりあてはまっているのではないか。
ただし、ここでの議論は、「結果責任を引き受ける強い自己」を前提としている(北田暁大著『責任と正義』勁草書房)。「あくまで結果責任――「したこと」の意図せざる結果――を主体的に引き受ける自己」に自己陶酔する「身勝手ー無責任な主体」がいるだけであり、こうした「強い責任主体」を当然視する見方に惑わされてきた感がぬぐえない。
この点については、意志の存在を前提とする「能動態」と「受動態」の区別を強調しつつ、“fall in love”のように意志とは無関係な「中動態」という概念に
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