「責任を痛感」という言葉を安倍晋三前首相は在職中に何度繰り返したのだろうか。2020年7月12日付の「毎日新聞」にある「なぜ首相は「痛感」した責任を取らない? 安倍流処世術、軽さの原点」という記事によれば、「国会だけでも首相が自身の責任を語る文脈で「責任を痛感」と発したのは、12年の第2次政権発足から6月4日までに101回もある」という。口先だけで責任をまったく果たそうとしない人物が長年日本のトップにいること自体、まさに「ニッポン不全」の象徴と言えるのではないか。
このポスターをご覧いただきたい。安倍晋三自民党総裁は、「責任を果たす」と大見えを切っている。2017年3月の党大会で披露されたものだ。このポスターを切りつけて逮捕される事件が2019年11月に起きている。言葉を大切にせず、「しれっとした要領の良さ」だけの人間が世襲政治のもとで首相になれる現実が「ニッポン不全」を物語っている。
無責任な政治は、純然たる世襲議員とまでは言えない菅義偉政権になっても変わらないだろう。以下に考察するように、政治も無責任体制を擁護する仕組みになっているからだ。この仕組み自体を変革することこそ必要なのである。もちろん、それだけではない。一人ひとりの意識を変えなければ、仕組みを変えることさえできない。だが、SNSの世界はそうした意識をもちにくくしている。
昔からつづく「無責任の体系」
責任は、自発的・自律的主体の行動を前提に、その「自由」さにおいてなされた行為だからこそ、当の本人がその結果の責めを負うべきだという論理によって成り立っている。責任は、「刑事的責任」、「政治的責任」、「道徳的責任」などに区別することができる。別言すると、「人間は主体的存在であり、自ら選んだ行為に対して責任を負わなければならない」というわけだ(小坂井敏晶著『責任という虚構』)。
日本の場合、政治学者の丸山眞男は、明治憲法制定時から、「決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している」と指摘している(『日本の思想』)。だからこそ、大戦争を起こしておきながら、その「戦争責任」をとる者が見当たらず、責任の帰属する者だけでなく、責任追及する者や責任なる観念を問うシステムが全体として弛緩し、「無責任の体系」のようなものが第二次大戦後、とくにはびこることにつながった。
1984年に刊行された『失敗の本質:日本軍の組織論的研究』(現在は中公文庫)では、現場の自由裁量と微調整主義を許容するという日本的官僚制組織を長所として評価する一方、日本軍が階層構造を利用してこうした長所を圧殺したとしている。日本軍は、自らの戦略と組織を主体的に変革するための自己否定的学習(学習棄却)ができなかっただけでなく、作戦や統帥についてはその責任が問われることはなかった。それどころか、「仇討ち」の機会として、つぎの作戦にも責任者として参加を許されるといっためちゃくちゃな組織であったという。