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「官房」とは謝ることと見つけたり 頭を下げてギックリ腰は公務災害?

連載・失敗だらけの役人人生⑫ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

2017年7月、防衛事務次官を退官時に集まった職員に拍手で見送られ、深々と頭を下げる黒江氏=東京・市ケ谷の防衛省。朝日新聞社

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

行事運営は思わぬ鬼門

 中央官庁の官房は、企業の総務部と同様、人事や広報を含め組織全体を円滑に運営していくために必要な様々な仕事を担当しています。防衛省も例外ではありません。中でも官房文書課には、文書法令業務、国会対応業務、情報公開業務、陳情対応業務、行事関係業務などが集中しています。

 役人生活の半分近い16年間ほどを官房で過ごし、中でも文書課では係員、先任部員及び課長を経験しました。防衛省の官房業務は「うまくいって当たり前で誰からも褒められず、少しでも失敗や不具合があると各方面から厳しく叱られる」という割に合わない仕事です。

 ネガティヴな意味ではありません。天邪鬼な性格も手伝って、私はこういう仕事を決して嫌いではありません。むしろ大好きです。組織を支える「縁の下の力持ち」的な仕事は苦労が多いけれど、やりがいも大いにあるからです。

 とりわけ、行事の運営は、目立たないけれどもとても重要な仕事です。防衛省は、秋の自衛隊記念日を中心として様々な行事を開催しています。特に、陸海空の各自衛隊が毎年回り持ちで主催する観閲式、観艦式、航空観閲式はよく知られています。

2018年の自衛隊観閲式で行進する戦車部隊=埼玉県朝霞市の陸自朝霞訓練場。藤田撮影

 官房文書課は、これらの行事において総理や防衛大臣、来賓の国会議員や民間招待者などのVIPヘの対応を担当します。当日までの間に開催部隊などとの間で綿密な調整を行い、細心の注意を払って準備をし、予行を経て本番に臨むのですが、それでも予期せぬトラブルが発生する場合があります。

 官房長時代に行われた観閲式では、朝霞駅で民間のVIP招待客に誤った交通手段を伝えてしまったためスムーズに入場できず、客が怒って式典に参加せずに帰ってしまったということがありました。役所側が招待したのに入場もできなかったというのでは申し開きの余地もなく、翌日すぐに文書課長とともに本人のもとへ飛んで行って平身低頭謝罪に努めました。

 また、各地に所在する自衛隊の駐屯地や基地ではそれぞれの開設記念日などに祝賀の式典や行事が開かれます。地元の人たちにたくさん参加してもらうために土日祝日に開催されることが多いのですが、休み明けは文書課の行事担当者にとって要注意です。休日に行われた行事の接遇などに不満を感じた国会議員らからクレームの電話がかかってくるからです。

 席次が低かった、挨拶の順序が遅かった、来賓として紹介されなかった等々クレームの内容は多様です。主催者側の配慮不足が原因の場合も多いので、そういう時にはしかるべきレベルから謝罪するとともに、次回以降の行事で改善を徹底しなければなりません。

車回しの混乱で「出禁」

 私が文書課長を務めた時期の最大のテーマは、防衛庁から防衛省への移行でした。2006年(平成18年)秋の臨時国会で省移行法案が審議され、大変な苦労の末、12月15日に野党も含めた賛成多数で法案が可決され、翌2007年(平成19年)1月9日に防衛庁は省昇格を果たしました。

 法案審議は難航しましたが、省移行に伴う行事も大変でした。法案成立から1か月足らずの間に来賓・招待者の確定、式次第の確定、式典における記念講演の調整、来賓の席次の確定、案内の動線の確定などの準備を大車輪で行い、1月9日に防衛省において行われた省移行式典には100名を超える与野党国会議員が来賓として詰めかけました。当日は文書課長の私が司会進行役を務め、式典自体は何とか無事に終えることが出来ました。

2007年、「庁」から昇格した防衛省の正門看板の除幕式。左端で文書を持つのが文書課長当時の黒江氏=東京・市ケ谷。黒江氏提供

 ところが、一斉に式典会場の講堂を後にして帰路についた国会議員が庁舎の正面玄関に集中し、大混乱となってしまいました。混乱を避けるため、あらかじめ来賓の方々をグループ分けして順次退出して頂くようにアナウンスしていたのですがうまく伝わらず、玄関で大渋滞が生じてしまったのです。

 防衛省本省庁舎にこれだけの数のVIPが集まるのも初めてなら大量の車回しを行うのも初めてで、大勢の職員が奮闘したのですがホテルのようにスムーズには行かず、渋滞が解消するまでにかなりの時間がかかってしまいました。それでも大半の先生方は静かに順番を待って退庁して下さったのですが、最後の最後まで残された先生は激怒しました。

 その方は役所が事前に配布していた駐車票を携行せず、なおかつ車が指定駐車場に停まっていなかったため連絡に手間取ってしまったのですが、怒った国会議員にはそんな弁解は通用しません。私はその場で怒られ、その日の午後に謝罪に伺った議員会館の事務所で怒鳴り上げられ、最後は出入り禁止となりました。

 出入り禁止は長期にわたり、関係修復には大変に苦労しました。行事は計画通りに進むのが当然だと思われており、問題なく終了しても誰も気づかないし誰も褒めてはくれません。他方、何か不手際があると、迷惑をかけた相手方からばかりでなく省内幹部からも叱責されることになります。

 この事例のように相手方とのトラブルが長引いてしまっても、もちろん誰も助けてはくれません。行事の運営は「割に合わない」仕事の典型なのです。

公務災害(?)のギックリ腰

 文書課長の後、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)までの二年間、国会担当審議官を務めました。時あたかも自民党から民主党への政権交代が現実感をもって語られ始めた頃でした。国会ではいわゆる衆参ねじれ現象が発生し、与野党対立の先鋭化により予算も法案もなかなか成立せず、各省庁はみんな国会対応に大変苦労していました。

 防衛省は2007年(平成19年)1月に省に昇格したばかりでしたが、折悪しくこの年の秋以降に不祥事が相次ぎました。まず、インド洋における給油支援活動で米艦艇に対する給油量を取り違えて報告し、海幕幹部が誤りに気付いたにも拘らず訂正しなかったため、記者会見や国会答弁で誤った説明がなされてしまったといういわゆる「給油量取り違え事案」が問題となりました。

 同じ頃、同年夏に退任したばかりの前防衛事務次官が、在任中に取引先商社からゴルフなどの接待を受けていたとして逮捕されるという汚職事件が発生しました。さらに、年が明けて2008年(平成20年)2月には、野島崎沖で海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船と衝突し、漁船の船長親子が行方不明となる事故が発生しました。

2007~08年の朝日新聞1面での防衛省不祥事の報道ぶり

 これらの事案は、いずれも衆参両議院の予算委員会や所管委員会で取り上げられ、厳しく追及されました。国会担当審議官の私は、与野党の国会対策委員会の先生方や関係する委員会の理事の先生方の間を走り回って頭を下げ続けました。

 防衛省への格上げ法案は民主党も含め与野党多数の賛成で成立したのですが、あまりに防衛省の不祥事が続くため野党議員からは「省移行に賛成したのは間違いだった。こんな有様ならばもう一度『庁』に格下げすべきだ」などと批判されました。

 一連の不祥事に対する追及がようやく下火になった5月には、自衛隊体育学校所属の若い自衛官が国会敷地内に侵入し、議事堂前で切腹を試みるという事件が発生しました。命に別状はなかったためマスコミからはあまり注目されなかったのですが、彼がたまたま警備の手薄だった参議院側から侵入したため問題が大きくなりました。

 私自身もこの事件を機に初めて知りましたが、国会施設の管理責任は衆参それぞれの議院運営委員会が有していたのです。ねじれ国会の下、参議院の議院運営委員長は多数派野党の民主党の先生で、「国会に軍人が乱入したのは二・二六事件以来だっ」と激怒しました。

 収拾策を模索するため与野党の理事の間を毎日走り回り、ひたすら頭を下げて回りました。担当局長が委員会に出席して謝罪し、やっとのことで事態が収束した直後のある日、官舎の浴室で風呂の蓋をとろうとしてかがんだ瞬間に腰に鋭い痛みが走り、動けなくなりました。典型的なギックリ腰でした。

※写真はイメージです

藤田撮影

 整形外科にかかったものの痛みがひかず、厚労省のある先輩に教えて頂いたカイロプラクティック医院で診察してもらったところ、「大腿の後ろの筋肉、ハムストリングが張っています」という思いがけない診断結果を告げられました。

 さらに「黒江さん、最近お辞儀みたいな動きをしましたか?」と問われたので、「ここ一年近くずっとお辞儀をし続けて来ました」と状況を説明したところ、「ギックリ腰の原因はそれです! お辞儀の動きは大腿に負担がかかるのです。太腿の裏が張って負担に耐えられなくなると、次は腰に来て、最後はギックリ腰になるのです。労災の認定を受けられると思いますよ」と真顔で言われました。

 さすがに公務災害は申請しませんでしたが、今思うと申請していたらどうなっていたのか興味があります。ともあれ、この医院に二、三週間通った結果、幸い腰痛は治りました。

 余談ですが、最後の受診で鍼治療を受けてその劇的な効果に驚かされました。鍼を打たれて15分ほどベッドにうつ伏せになっていただけで、最後まで腰に残っていた鈍痛が嘘のように消えてしまったのです。東洋医学の効果を実感し、心から感謝しました。

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