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東日本大震災から10年 日本はリスク管理をどれだけ学んだのか?

「想定」のズレが招く社会不安を克服するために必要なこととは

酒井吉廣 中部大学経営情報学部教授

陸前高田の奇跡の一本松 Hit1912/shutterstock.com

 東日本大震災から3月11日で10年。その間も日本は、地震や大雨、ウイルス禍など災害に見舞われ続けている。人々を不安に陥れるリスクの管理について、日本社会はこの間なにを学んできたのか。あらためて検証してみたい。

          ◇

 2月21日付朝日新聞デジタルに「『防波堤は全て壊れる』津波の新想定、被災地住民に衝撃」との記事が掲載された。

 海から約500メートルの災害公営住宅「赤前災害住宅」で妻と暮らす男性が、内閣府の有識者検討会が昨年公表した巨大地震の津波想定に基づく新しいハザードマップを見て、千年に一度という大津波に襲われれば自宅が浸水すると知って不安になるという内容だった。

 記事のキモは、10年前に起きた東日本大震災の復興事業で、「百年に一度の規模の津波を前提に作った防波堤の内側に住むことを待っている人達」に、「その防波堤は千年に一度の規模の津波により破壊される」というリスクがあることを公表した点にある。

 政府のこうした対応はどう評価されるべきなのか。リスク管理という側面から考えてみたい。

想定外の災害に専門家・政策当局はどこまで責任を負うのか

 我々は、リスクの中で生きている。どこかにリスクがあるのではなく、社会全体がリスクで覆われているのだ。特に重要なのは、自分では排除できないリスクがある点である。

 チェルノブイリ原発事故があった1986年、ドイツのウルリヒ・ベックが「危険社会(Risikogesellshaft)」という本を上奏した。この本には、世の中には人間を分け隔てることなく迫ってくる危険があるため、人間は「危険社会」の中に生きていることを理解すべきだとある。

 「危険社会」のリスクを測定できない普通の人間は、専門家や政策当局のリスク管理に依存することになる。では依存された彼らは、そもそも排除困難なリスクへの対応策について、どこまで責任を問われるのだろうか。

 たとえば、中国では昨年、揚子江流域が百年に一度と言われる大雨の長期化に見舞われた結果、世界最大の三峡ダムに決壊リスクが生じ、7億人に影響が出かねない状況にあると報道された。最悪期の8月下旬には、ダムの水位が167メートルと過去最高を記録した。この時、長江水利委員会は全水門を開けて放水。多くの都市が浸水被害を受けたが、結果的に大災害は回避できた。

 これへの責任は、中央と地方の両政府がとるとされており、想定通りの行動をしていたにせよ、仮に大災害を引き起こしていれば、関係者は左遷されていたかもしれない。

住民はなぜ、被災の不安にかられたのか

 朝日新聞デジタルの記事に戻ると、「何年に一度」というのはあくまで確率であって、数年の間に再び発生することを否定はできない。現に、千年に一度と言われた津波で死者を出した地域の住民が、また被災するのではないかと不安にかられるのは理解できる。

 とはいえ、記事を読む限り、発表した内閣府にも、それを受けて地域に説明するか非公表とするか迷った地方公共団体にも、特段の落ち度があるとは思われない。それでは、どこに問題があるのだろうか。

 結論を先に言えば、「想定」という日本語の単語の意味が曖昧(あいまい)なため、科学者と住民では受け取り方が異なること、そして、そうした認識のズレを前提にした丁寧なコミュニケーションを心がけないと、政府や自治体が行う災害対策が国民に受け入れられ難い、ということだ。さらに、その際に有効なのは、政府が地域住民の防災対策への積極的な参加を認めることである。

 以下、こうした事情を解き明かし、東日本大震災の被災者などに対してどのような行動をすべきだったか、またこれからしていくべきかについて述べる。

異なる意味合いで使われる「想定」という言葉

 東日本大震災時の津波にせよ、コロナ禍にせよ、顕著なのは、科学的データに基づいた「想定」が、社会が受け入れることができる「想定」の範囲と必ずしも一致しないということだ。なぜ、そうなるのか。先述したように、大きな理由は日本語の曖昧さにある。

 「想定」を英訳すると、
①Prediction(データを使って科学的に想定すること)、
②Expectation(社会的常識等を使って想定すること)、
③Anticipation(将来を見通すこと)、
④Assumption(仮定を立てて結果を予測すること)
の四つがある(括弧内は筆者が違いを明確にするために付けた解釈)。

 裏を返せば、日本語の「想定」は四つの意味をもつ。そのため、この言葉を発する人によって、異なる意味合いで理解されていることが少なくない。

 この四つを使い分けることが重要なのは、東日本大震災を例に挙げれば、「どこまでが天災でどこまでが人災か」、「災害の発生に業務上の過失はなかったか」、「新たな防災を行う時の基準をどうするか」、「その判断責任を誰が負うか」を考える際、日本国、自治体、東京電力、被災者がそれぞれの立場で必要とみなすものと、その理由が異なってくるからだ。

 先述の記事のケースで言えば、内閣府が専門家会議の結論として発表したのは、「100年に一度」の割合で起こる津波ならば、既に完成しつつある14.7メートルの防波堤で防げるが、「千年に1度」の割合で起こる津波は威力が格段に大きいために、防波堤自体を破壊するという科学的試算に基づくものであった。

 専門家にすれば「想定」が異なれば、それに基づく結果が出てきて当然だが、今度は大丈夫と「想定」して安心して住んでいた住民にとっては衝撃である。言い方を換えれば、①の科学的な想定(predict)に基づく威力の強い津波が、②の社会的に受け入れられるレベルでの想定(expected)を上回り、「それは『想定外だった(unexpected)』」という結果を招くのである。

 そもそも「千年に1度」の想定を立てること自体を事前には教えられていなかった住民にすれば、政府に騙されたかのような思いにとらわれても不思議ではない。

津波で壊滅的な被害を受けた宮城県仙台市若林区荒浜の海辺付近の集落。呆然と立ちつくす人や、水につかりながら家を目指す人の姿があった=2011年3月12日 被写体所在地 宮城県仙台市若林区荒浜

住民は何に基づいて津波を「想定」したのか

 次に、被災した地域の住民が、東日本大震災前の津波に対して、どんな「想定」に基づいた備えをしていたかを見てみよう。

 記憶に残る報道がある。とある神社にあったかなり昔の絵に、津波被害の様子が描かれていた。その神社がある場所は高台だったので、地域住民はその絵を目にしてもリスクと捉えることはなかったという。大震災後、その絵が後世への警鐘だったと気付くが、残念ながら、それまでは科学的な見地を重視するあまり、神社の絵に注目することはなかったという説明だった。

 実は神社にあった絵は、住民に万一の備えをさせることを「想定」したものだったと言える。上記の四つの中の③のAnticipationにあたる。

 一方、岩手県釜石市では、津波の襲来を想定した避難訓練をしていた地域で、想定を超える津波が来たので、避難訓練通りの建物に集まるなどの行動をしたにもかかわらず、少なくとも68人が死亡するという悲劇が起こった。避難訓練をするためには津波の大きさを想定する必要があるが、その「想定」に間違いがあったのである。

 また、訓練の印象が強すぎて、市が指定していた高台の避難場所に逃げなかったという悲劇も重なった。「想定外」は二重の悲劇を生んだ。

 想定をした学者、学者から知識を得て判断した釜石市の職員らは、その時点では真剣に想定していたはずである。ここでの「想定」は上記の④のAssumptionであり、おそらく津波の想定をした人達は、科学的根拠というよりも、常識から考えて適当と判断するレベルのものを選択したのだろう。

 だが、彼らに落ち度があるとは言い切れない。仮に①のPredictionによる「想定」をしていたとしても、結局はそれを超える津波にあっていたかもしれないからだ。ちなみに、訓練の避難場所以外を教えられていなかったとする被害者の遺族が起こした訴訟では、「避難場所の周知に積極的義務なし」との判決がでている。

 東日本大震災の被害は、①地震そのものによるもの、②津波によるもの、③原発事故によるもの――の三つだ。①はともかく、③は②の津波によって引き起こされた面が大きい。津波に関する「想定」が①Predictionによるか、②Expectationに基づくものかで、結果は違っていたかもしれないが、それは後講釈の域を出ない。

 興味深いのは、神社にある絵が、科学者たちの研究よりも人々の命を救う教訓を含んでいたかもしれない点だ。③Anticipationの「想定」を単なる迷信と片付けてしまった今のわれわれ日本人の感性に問題があるのかもしれない。

「想定」の使い分けが大切

 震災当時、筆者はワシントンDC郊外に在住していたので、日本での報道のすべてを承知しているわけではないが、その時に見た新聞報道で記憶に残るものが三つあった。

 ひとつは、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙が震災直後から3月末までの約20日間に掲載した300を超える記事。上述の四つの「想定」を使い分けることの大切さについての言及が目立っていた。

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