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ミャンマー治安部隊とデモ隊、筆者の自宅近くで衝突 家の中に入り込む催涙弾の異臭~ヤンゴン緊急リポート第七弾

ミャンマー衝突、筆者の自宅内に入り込む催涙弾の異臭 現地から日本へのメッセージ

松下英樹 Tokio Investment Co., Ltd. 取締役

ミャンマーの治安部隊とデモ隊の衝突が、ついにヤンゴン市内でも始まった。現地からの報告を続けるヤンゴン在住の日系投資会社役員、松下英樹さんの自宅近くもその現場となり、催涙弾のガスが住居内にまで侵入してきた。緊迫の度を増す現地からのリポート第七弾。
松下英樹(まつした・ひでき) ヤンゴン在住。2003年より日本とミャンマーを往復しながらビジネスコンサルタント、投資銀行設立等を手がけ、ミャンマーで現地ビジネスに最も精通した日本人の一人として知られている。著書に「新聞では書かない、ミャンマーに世界が押し寄せる30の理由」(講談社プラスアルファ新書)

 ついにヤンゴン市内でもデモ隊と治安部隊の衝突が始まった。今日(27日)は私の住居の近くが“主戦場”となった。昨日(26日)日本人ジャーナリストが当局に連行された現場でもある。催涙弾の発砲音が鳴り響き、銃を構えた治安部隊が大通りを制圧する。デモ隊は逃げてはまた集まり、激しいシュプレヒコールと革命の歌声で抵抗を止めない。クーデターが起きて既にひと月が過ぎようとしているが終わりは見えない。

2月27日午前11時 催涙弾の白煙があがる サンチャウン地区バガヤ通り (筆者撮影)2月27日午前11時 催涙弾の白煙があがる サンチャウン地区バガヤ通り (筆者撮影)

 2月27日(土)午後2時、デモ隊の激しいシュプレヒコールを聞きながらこの原稿を書いている。私の住居はヤンゴンのサンチャウン地区Bagaya(バガヤ) 通りというところで、ヤンゴンの主要交差点の一つであるミャニゴン交差点から500メートルほど西側に位置する。東京でいえば渋谷のスクランブル交差点のようなところで、普段から多くの若者で賑わっている。抗議デモが開始されてからは、そこは主な集会場所の一つとなっており、一昨日までは秩序だった平和的なデモ活動が行われていた。

【動画】2月27日午前11時 警官隊に追われ路地に逃げ込む人々(筆者撮影)

 今朝は久しぶりに近くの喫茶店に行きモヒンガー(ミャンマーの国民食と言われる麺料理)を食べた。新型コロナウイルス感染症拡大の影響で昨年の9月末からずっと店内飲食が禁止されていたため、この5か月ほどはずっと持ち帰りのみの営業であったが、数日前から店内飲食が再開された。政府から正式に店内飲食再開の許可は出ていないが、国民の関心はもはやコロナウイルスどころではない。不服従運動(CDM)で行政機能も麻痺していることから「独自の判断」で再開に踏み切ったものと思われる。

 朝7時半、店内は既に満席だった。麺料理はやはり熱々でなければいけない。久しぶりに店内で食べたモヒンガーの味は格別であった。周りを見れば、それぞれ好みの朝食を食べ、ラぺッイエ(コンデンスミルクがたっぷり入った甘いミルクティ)を飲みながら、みんな政治とデモのことを話題にしていた。日ごと深刻さを増している状況であるが、コロナ以前の日常生活にやっと戻った喜びを感じることができたひと時だった。

ミャンマーの国民食モヒンガー(ナマズだしスープに米麺)ミャンマーの国民食モヒンガー(ナマズだしスープに米麺)

治安部隊が催涙弾発射、自宅にまで入り込む異臭

 午前11時ごろ、たまった仕事を片付けようと机に向かっていると、突然近隣住民が鍋釜を打ち鳴らし、叫び声が上がった。

 「走れ、走れ、逃げろ!」

 慌ててバルコニーに出てみると、大通りからデモ隊の若者たちが路地に向かって走ってくる姿が見えた。住民たちはそれぞれ家の扉を開けて、数名ずつをかくまっているようだ。リーダーと思しき青年が叫んでいる。

 「左右に散らばれ、建物の中に入るんだ!」

 大通りでは通りがかった市営バスが道路を塞ぐようにして止まっている。制服を着た治安部隊がバスの運転手を引きずり降ろしている。発砲音が数回鳴り響き、白煙が上がった。「バズン、バズン」。銃声より重い響きだった。催涙弾を発射したらしい。

 風に乗ってこちらまで煙がやってくる。異臭がする。目が痛い。部屋に戻ってマスクを探す。こんな時にマスクが役立つとは思わなかった。クーデターが起きてから約1か月、いろいろな意味で非日常の世界を味わってきたが、まさか自分が催涙ガスを浴びることになるとは・・・。

警察の制服を着ていても中身は軍人

 12時過ぎ、昼食の用意をしようとしてキッチンに向かう。キッチンの窓からアパートの駐車場の隅に隠れて休んでいる若者たちの姿が見えた。今朝、市場で買ったバナナをひと房差し入れした。「ありがとうございます」、「気を付けて」。今の自分にできることはこんなことしかない。外国人ではあるが、ミャンマーに30年以上関わってきた者として、若者たちには申し訳ない思いでいっぱいである。

【動画】22日に全国規模で行われたデモで群衆に埋め尽くされたフレーダン交差点(筆者の友人が撮影)

 既にヤンゴン中心部にも数千人規模の軍隊が投入されている。警察の制服を着ていても中身は軍人である。私服で群衆に紛れて監視しているグループもいるらしい。SNSには営業中のレストランやデリバリーの配達員から食料を強奪する様子を映した写真や動画が拡散されている。

 1964年生まれの私は現在56歳、かつてミャンマー(当時はビルマ)で学生運動が燃え盛った1988年8月には24歳だった。3月に大学を卒業し、新卒で就職した会社を3か月で辞めて、米国ロサンゼルスに語学留学中であった。当時の私はビルマで凄惨な悲劇が起きていたことなど全く知らずにいたが、同世代のミャンマー人の友人たちは学生運動に身を投じていた「88世代」であり、その後ことあるごとに当時の様子を聞かされてきた。今、私はまさにその現実の中にいる。

ミャンマー現地の人から日本へのメッセージ

 以下は、私の同世代の友人(ミャンマー人)が日本語で日本人に向けて書いた文章である(日本語として理解しづらい部分のみ一部、読みやすいように修正した)。「22222運動」とは、今年2021年2月22日に起きた大規模デモに代表されるミャンマーの現在進行形の抗議運動を指す。主張が踏み込んでいる部分もあるが、彼らの生の声として、あえてそのままお伝えしたい。

    ◇

 『“8888”運動と”22222”運動の比較』

 「8888年の社会主義反対運動の原因は経済破綻によるもので、生活の苦難から勃発しました。それに先立つ1962年の軍事クーデターは、国の分裂と華僑、印僑型経済圏の脱却を目指して民主主義文民政権を抑えた事です。そこからミャンマー式社会主義憲法成立の1974年まで軍政でした。その間試された社会主義経済文化は上手く機能しなかった。前の文民政権での経済的な豊かさは崩れるし、政治的な体制も試行錯誤で結局中国寄りでもソビエト連邦寄りでもなく、独自の社会主義で行いました。

 政権は民間人の政治家からではなく、ほとんどは軍人からなるもので、経済は中央管理体制の政策で生活的食料品さえ全市民に配給制度で支給されました。経済が疲弊して通貨も下落しました。紙幣も何回か廃止されました。国民は耐えきれなくなり、社会主義国家を変えようと、8888運動を起こしたのです 。

 最初は些細な揉め事からエスカレートして大学生が主導した反対運動でした。リーダー的政治家はいましたが、内部が纏まらず、混乱して政権に対抗出来る指導力がなかった。

 88年のとき、最初は皆が非暴力で戦っていました。政権が治安部隊を使って鎮圧しても民衆は耐えて闘った。CDM(不服従運動)も成功しましたし、ゼネストの成果もあって行政が麻痺した末、大統領は2,3か月間に3人が代わって最後に無政府状態に陥った。そこに工作員やら、刑務所から釈放された犯罪者やらを混入させて暴動運動に作り変えられてしまった。

 当時は(インターネットがなく)互いに連絡は出来ないため、デモ隊リーダーの指示を紙に印刷して配った情報か、外国のラジオ局のBBCかVOAかの情報で行動した。大学生のリーダー達はUG(UnderGround) に潜っての活動です。軍部は、 暴動が酷くなるまで待ってから軍隊を投入し鎮圧しました。国際世論を意識して国内反乱事件として内政不干渉の形を作ろうとした意図がありました。見る者全員を非人道的に射撃し、連行して拷問です。正確な死亡者名簿はないが、少なくとも3〜4千人はいたでしょう。国境から数万人が脱出しました。

 軍政が誕生し、国民と世界にこれから民主主義の選挙を行って選挙に選ばれた人に政権を譲渡して軍は基地に戻ると約束した。1990年の選挙ではNLDが圧勝しましたが、約束した政権移譲はされず当選員等は独自に暫定政府を立ちあげました。しかし結局、皆が投獄されました。民衆は軍政に騙されて、期待した民主主義は白紙になって軍政下の言うままで22年間も待たされ、2011年にようやく民主化に移行しました。それが、今の軍人25% 参加の憲法です。それはクーデターを二度と繰り返す必要がないように軍が制定した憲法です。

「今回のクーデターは、以前と全く違う」

 今回は以前と全く違った状況のクーデターです。民政が10年目になり、民主主義が軌道に乗る一歩手前で阻止しようとした個人的な野心による行為です。ミン・アウン・フライン司令官は今年で定年ですが、司令官を退役しても、憲法上の軍人枠で副大統領の座には着けます。自分の後継者も自分のお気に入りを選べます。実際に2〜3年前から地方の軍司令官を自分の息のかかった者に全部交代させました。自分の権力基盤をできる限り作りました。

 軍隊の予算は大体日本円で2千億円以上ですが、これを政府が検査出来ない為、軍事用の支出は彼が自由自在に決めて自分の財布にしています。彼の家族の資産は何百億円もあるらしく、それでも欲張りで彼の部下からも批判する声も出ています。

 それにロヒンギャの問題で国際法裁判所(ICJ)に起訴された事もあります。その原因が今のクーデターに繋がったと思います。有権者名簿の不備は言い訳で、NLDから政権を剥奪して、NLD党を潰す計画だと思います。クーデターのあと、3週間ぐらいで民衆を取り締まれる法改正して、選挙結果も無効にしています。彼の考えはタイの軍政の真似で、自分が政権を仕切りたいのでしょう。

 今回は、クーデターの正当性は何処にも見当たりません、法律を無視した行為に対する民衆の正義の闘いでもあります。ミャンマー人が信じる正義を取り戻すデモと言える。ミャンマー軍の組織は強固で民衆を鎮圧した経験もあるから、今回のデモ隊を抑える対策は出来上がっているに違い無い。民衆側も非暴力的で、なおかつ前回の教訓を下に対抗しなければなりません。

 (今回の特徴の)第一は全国市民参加の反対運動です。報道によると2月22日は、全国で260か所の市民が参加して、人口の20〜30% が参加したかもしれない大規模な反対運動でした。

 第二は市民不服従運動(CDM)です。政府がある首都のネピドー以外は殆ど成果が出ています。職員のCDMへの参加を阻止した上司に対しての市民制裁は相当効果がありました。CDMの中には、軍政が出した法令を認めない、軍関係企業の商品の不買運動、国に納める税金、公共料金を支払わない事も含まれます。

 第三はNLD党の当選者等が国会、議会を行って正当化を図るものです。少々遅れたのですが、連邦議会代表委員会(CRPH)が出来て国内外からも支持されました。その効果で、ミャンマー国連大使も支持し、国連会議でスーチー政権に従う事を表明しました。結果はまだわかりませんが、今のところ、民衆が有利になっていると思っています。

 改めて、88年と今回との違いを以下にまとめましょう。

二つのクーデターの異なる点

【前回と今回のクーデターの違う点】
1.前回は社会主義反対運動、今回は正義を取り戻す抗議運動である
2.前回は暴動があってからのクーデター、今回はクーデターが起こってからの反対運動である
3.前回は選挙への期待感で沈静化、今回は軍政が政治から撤退するまで続ける
4.前回は軍政下でCDMが失敗、今回は民政下でのCDMで成果あり
5.前回はNLDの議会活動、暫定政権の立ち上げに失敗、今回は連邦議会代表委員会(CRPH)への国内外の支持がある
6.前回は国内外の圧力がなかった、今回は長年にわたり国軍と闘ってきた少数民族による武装グループ の反対と国際社会の支援がある
7.前回は国内情勢の情報発信ができなかった、今回はメディアとSNSで情報発信が瞬時にできる
8.前回はリーダーの行動に従った、今回は信念に従って皆がリーダーの意識を持った自発的な行動
9.前回はX世代(当時の若者たち)の犠牲を覚悟した全面対決姿勢、今回はZ世代(今の若者たち)の結果を重視するスマートな闘い

 等が挙げられます。成功するためには忍耐強く、皆の力を合わせてやらなければなりませんので日本の皆様もミャンマーの為に自分の出来る範囲で参加して見守ってください。

 宜しくお願いします」