阿部 藹(あべ あい) 琉球大学客員研究員
1978年生まれ。京都大学法学部卒業。2002年NHK入局。ディレクターとして大分放送局や国際放送局で番組制作を行う。夫の転勤を機に2013年にNHKを退局し、沖縄に転居。島ぐるみ会議国連部会のメンバーとして、2015年の翁長前知事の国連人権理事会での口頭声明の実現に尽力する。2017年渡英。エセックス大学大学院にて国際人権法学修士課程を修了。琉球大学客員研究員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
女性である、育児で仕事を休む……。全てが多様な社会を見つめる目、耳、足場になる
3月8日の「国際女性デー」を前に、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗元首相の「女性蔑視発言」に代表される女性への蔑視や差別、そして女性の社会進出が進んでいない現状があらためて顕在化している。根源にある日本の「オールド・ボーイズ・ネットワーク」とも呼ばれる男性中心のつながりによる意思決定のあり方。それは、この問題を伝えるマスメディアにとっても大きな課題である。
民放、新聞、出版などの労組4団体は2月9日に会見を行い、『メディアの意思決定層に女性が少ないことが多様性の欠如を生み、読者や視聴者、やる気がある人材が離れ、さらには情報を受け取る国民の「無意識の思い込み」につながる』という危機感から各業界団体に女性役員を増やすよう要請したことを明らかにした。
そこで本稿では、沖縄のメディアで報道に携わる女性のフロントランナー2人の対談から、メディアで働く女性の環境をめぐる状況の変化を紐解くとともに、若い世代へのメッセージとなることばを紹介していきたい。
この対談は、沖縄の女性のエンパワメントに取り組む団体「I Am」(アイアム=文末で紹介)が主催する公開イベントとして去年12月に行われ、現役メディア関係者や就職志望の学生など約10人が参加した。登壇したのは、3年前に日本新聞協会加盟社で当時唯一の女性編集局長となった沖縄タイムス社の与那嶺一枝さんと、NHK沖縄放送局で通算25年あまり記者として県内各地の取材にあたっている西銘むつみさんだ。
まず2人から語られたのは、記者として働き始めた頃の経験だ。形は違えども、2人とも「女性であるがゆえの否定」と向き合わなくてはならなかった。
与那嶺さん)
私は1990年に入社し、最初は内勤でしたがその後社会部の記者になり、当時記者の基本と言われていた警察担当に手をあげて、社内で初めて女性の警察担当になりました。
情報を取るために各課の広報を担当する課長の次の次席のところを毎朝おはようございますと言って訪ねて回りました。その時、私の母親ぐらいの年齢の50代後半くらいの女性が毎朝お茶を出してくれました。自分は仕事も何もできなくて雑談をしに行っているだけの存在なのに、自分の母親くらいの年齢の女性がお茶を出してくれるという行為が本当に申し訳なくて。
会社も男社会、取材先も男社会、その中で私みたいな何にもできない記者にお茶を出してくれるというこの矛盾にすごく悩むと言うか、自分は「名誉男性」でしかないな、と思うつらい時期を過ごしていました。
与那嶺さんが口にした「名誉男性」ということばに、報道に携わる女性が「オールド・ボーイズ・ネットワーク」の中で働かざるをえなかった苦しい状況が滲む。
一方の西銘さんが沖縄放送局に初めての女性記者として赴任したのは1992年。「大学まで普通に男女平等と言われているのに、社会人になっていきなり女性蔑視、差別が始まるっていうのであれば、生まれた時から女性蔑視の教育を受けられるように変えていてくれればよかったと感じた」と当時を振り返りながら、自分の存在が否定されたと感じる経験を語った。
西銘さん)
赴任することが決まった後、総務の担当者から「なんだ西銘が赴任するのか」と言われました。男性の同期と私の2人が沖縄出身で採用されていて、男の方じゃなかったのかという意味だったんですね。そして、記者が月に2、3回泊まり勤務をする時に仮眠を取るソファーベッドに君のせいでカーテンをつけなきゃいけないとか、補助で泊まるアルバイトが男子大学生なので「女と男で泊まるわけだからジーンズとかを履いてきてね」とか、色々な状況で否定されて、これは辞めてしまおうかなと思ったぐらいでした。
ほかにも、当時事件記者は特ダネを取れとよく言われましたが、特ダネを取ったら「女だからとれた」、さらには「ウチナーンチュだから取れた」と言われる二重苦みたいなものがありました。メディアこそ男尊女卑が激しいというのは学生時代に本で読んではいましたが、これは本当だな、と。
2人がマスメディアの世界に足を踏み入れたのが1985年に男女雇用機会均等法が成立してからわずか数年だったとはいえ、報道の職場や取材現場のジェンダー平等は大幅に遅れていた。
私がNHKに入局したのはそれから更に年月が経った2002年だったが、まだまだ女性として働くことの難しさは残っていた。先輩に「君は子宮でものを考えるから」と言われて言葉を失ったこともあった。
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