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沖縄報道のフロントランナーから、メディアで働く女性たちへ~国際女性デーに寄せて

女性である、育児で仕事を休む……。全てが多様な社会を見つめる目、耳、足場になる

阿部 藹 琉球大学客員研究員

 3月8日の「国際女性デー」を前に、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗元首相の「女性蔑視発言」に代表される女性への蔑視や差別、そして女性の社会進出が進んでいない現状があらためて顕在化している。根源にある日本の「オールド・ボーイズ・ネットワーク」とも呼ばれる男性中心のつながりによる意思決定のあり方。それは、この問題を伝えるマスメディアにとっても大きな課題である。

 民放、新聞、出版などの労組4団体は2月9日に会見を行い、『メディアの意思決定層に女性が少ないことが多様性の欠如を生み、読者や視聴者、やる気がある人材が離れ、さらには情報を受け取る国民の「無意識の思い込み」につながる』という危機感から各業界団体に女性役員を増やすよう要請したことを明らかにした。

 そこで本稿では、沖縄のメディアで報道に携わる女性のフロントランナー2人の対談から、メディアで働く女性の環境をめぐる状況の変化を紐解くとともに、若い世代へのメッセージとなることばを紹介していきたい。

 この対談は、沖縄の女性のエンパワメントに取り組む団体「I Am」(アイアム=文末で紹介)が主催する公開イベントとして去年12月に行われ、現役メディア関係者や就職志望の学生など約10人が参加した。登壇したのは、3年前に日本新聞協会加盟社で当時唯一の女性編集局長となった沖縄タイムス社の与那嶺一枝さんと、NHK沖縄放送局で通算25年あまり記者として県内各地の取材にあたっている西銘むつみさんだ。

2020年12月に行われた対談イベントの最後、参加者全員で去年12月に行われた対談イベントの最後、参加者全員で=IAm(アイアム)提供

 女性であるがゆえの否定と向き合う

 まず2人から語られたのは、記者として働き始めた頃の経験だ。形は違えども、2人とも「女性であるがゆえの否定」と向き合わなくてはならなかった。

 与那嶺さん)

 私は1990年に入社し、最初は内勤でしたがその後社会部の記者になり、当時記者の基本と言われていた警察担当に手をあげて、社内で初めて女性の警察担当になりました。

 情報を取るために各課の広報を担当する課長の次の次席のところを毎朝おはようございますと言って訪ねて回りました。その時、私の母親ぐらいの年齢の50代後半くらいの女性が毎朝お茶を出してくれました。自分は仕事も何もできなくて雑談をしに行っているだけの存在なのに、自分の母親くらいの年齢の女性がお茶を出してくれるという行為が本当に申し訳なくて。

 会社も男社会、取材先も男社会、その中で私みたいな何にもできない記者にお茶を出してくれるというこの矛盾にすごく悩むと言うか、自分は「名誉男性」でしかないな、と思うつらい時期を過ごしていました。

与那嶺一枝さん(沖縄タイムス取締役編集局長)与那嶺一枝さん(沖縄タイムス取締役編集局長)=IAm(アイアム)提供

 与那嶺さんが口にした「名誉男性」ということばに、報道に携わる女性が「オールド・ボーイズ・ネットワーク」の中で働かざるをえなかった苦しい状況が滲む。

 一方の西銘さんが沖縄放送局に初めての女性記者として赴任したのは1992年。「大学まで普通に男女平等と言われているのに、社会人になっていきなり女性蔑視、差別が始まるっていうのであれば、生まれた時から女性蔑視の教育を受けられるように変えていてくれればよかったと感じた」と当時を振り返りながら、自分の存在が否定されたと感じる経験を語った。

 西銘さん)

 赴任することが決まった後、総務の担当者から「なんだ西銘が赴任するのか」と言われました。男性の同期と私の2人が沖縄出身で採用されていて、男の方じゃなかったのかという意味だったんですね。そして、記者が月に2、3回泊まり勤務をする時に仮眠を取るソファーベッドに君のせいでカーテンをつけなきゃいけないとか、補助で泊まるアルバイトが男子大学生なので「女と男で泊まるわけだからジーンズとかを履いてきてね」とか、色々な状況で否定されて、これは辞めてしまおうかなと思ったぐらいでした。

 ほかにも、当時事件記者は特ダネを取れとよく言われましたが、特ダネを取ったら「女だからとれた」、さらには「ウチナーンチュだから取れた」と言われる二重苦みたいなものがありました。メディアこそ男尊女卑が激しいというのは学生時代に本で読んではいましたが、これは本当だな、と。

西銘むつみさん(NHK沖縄放送局記者)西銘むつみさん(NHK沖縄放送局記者)=IAm(アイアム)提供

 2人がマスメディアの世界に足を踏み入れたのが1985年に男女雇用機会均等法が成立してからわずか数年だったとはいえ、報道の職場や取材現場のジェンダー平等は大幅に遅れていた。

 私がNHKに入局したのはそれから更に年月が経った2002年だったが、まだまだ女性として働くことの難しさは残っていた。先輩に「君は子宮でものを考えるから」と言われて言葉を失ったこともあった。

主流から離れたからこそ見えた社会の問題

 そんな中でも2人はそれぞれ苦しみを乗り越えながら道を切り開いてきた。与那嶺さんはみずからのポジションが上がっていく中で、仕事と私生活で困難に直面し、うつ病で休職した経験を明かしてくれた。

 与那嶺さん)

 記者には「抜いた、抜かれた」の世界があって緊張感が高い。私は30代後半で経済班のキャップになりましたが、他紙が気になって夜中に起きては見る、ということを繰り返している中で、眠れなくなりました。その後もう少し落ち着いて仕事ができる「くらし報道班」に希望を出して移りましたが、今度は全然仕事の仕方が違う。経済班の時はキャップ、リーダーみたいなこともうまくやっていたはずなのに、なかなかうまくできない。

 そんな時に父親がガンで亡くなるということが重なりました。父は沖縄戦で両親や兄弟を失ってすごく苦労した人なので、老後は私が見るんだとイメージしていたのですが、それができなかった。仕事もうまくいかない、父親も亡くなる、ということがあってうつ病になって、5ヶ月あまり仕事を休みました。ちょうど年末の繁忙期で、休むことはすごく辛かったけれど、友達や後輩にも「絶対休んだ方がいい」と言われて、決意して休むことになりました。

 最初はちょっと散歩しただけでもすごく疲れが出る状態でしたが、少しずつ疲れが取れていきました。そんな中で「自分を振り返らないといけない」と思って、その日の出来事を毎日書くことをはじめました。それから段々と、家族や同僚との関係、仕事のやり方などを振り返って自分自身と向き合いました。この作業を通じて「自分はそんなに仕事ができなかったわけではないんじゃないか」「結構頑張ったよね」とようやく思うことができました。

 私はずっと自己肯定感が低かったんですが、うつ病になって自分を見つめて
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