公共性への無関心という病
2021年03月12日
2021年2月25日付の「朝日新聞電子版」によると、大阪府池田市の冨田裕樹市長が市役所に家庭用サウナを設置した問題などを調べる市議会調査特別委員会(百条委員会)は2月24日、冨田市長を初めて証人喚問した。
複数の報道によると、2019年4月の着任後、自転車型トレーニング器具やストレッチ器具、施術用ベッドを市長室の隣の市長控室に設置したほか、2020年9月の家族の引っ越しに伴い、自宅にあった簡易サウナを搬入したようだ。市長控室は3階の男女トイレや更衣室に通じるスペースをカーテンで区切り、設けられたもので、明らかに公共の空間を「私物化」しているようにみえる。だからこそ、問題化したのであろう。
筆者が関心をもったのは、冨田市長の空間認識についてである。人間は空間とどうつき合ってきたかをずっと気にかけてきたからである。
拙稿「テレワークと文化的差異:「つながらない権利」VS監視」において、ギリシャの都市国家は公的領域と私的領域をその設計思想によって区別してきたという話を紹介したことがある。家屋のなかに両者の「閾(しきい)」が内在することで、両者の分断を避けてきたのである。家事にかかわる空間と、それ以外に外部との交流を前提とする空間を設計上分けたことで、「公」と「私」の区分につながった。
この議論をもう少しだけ丁寧にすると、日本では、家の内と外を区別する閾として、縁側があったから、閂や鍵で家屋の内と外を区別していたわけではない。家屋の内側をみると、日本では、襖や障子、衝立で仕切られた空間があるだけで、部屋に鍵をするという発想はそもそもなかった。たぶん、木造の家屋と紙で区切られただけの空間においては、プライバシーといった概念は育ちようがないだろう。
これに対して、石造りの家屋は、とくに人口密度の高い都市空間において日本とはまったく異なる空間認識を生み出した。家屋に窓がある結果、プライバシーも問題になる。部屋には鍵を設けることもできる。他方で、安全も気になるから、内側から外をながめる窓も重要な意味合いをもつ。
いわゆる西洋では、防護用の外壁と安全に庇護する屋根とを必要とする家屋、すなわち住居がただ単独であるというよりも、もっと広い外ともつながりをもっていた点が決定的に重要だ。オットー・フリードリッヒ・ボルノウ著『人間と空間』という本には、つぎのような指摘がある。
「しかし家屋とは、われわれがさしあたって考慮のそとにおいているもの、つまり防備を固めた都市とか、それぞれの防備を固めている空間領域一般とかがただちにむすびつくし、そして外壁や屋根には柵や垣が歩み寄ってくる。」
こうした住まいという空間への認識の違いこそ、「公」と「私」との区別の難しさ、公私混同の問題にかかわっている。
ヨーロッパを旅すれば、多くのアジア人はその均整の保たれた景観に美しさを感じるだろう。こうした景観が保たれている背景には、公共空間への規制を受けいれるという公共性への強い関心と理解がある。
これに対して、アジアの各都市の景観は無秩序な看板やネオンサイン、果てはわけのわからないパタパタとなびく旗まであって、醜い。まさにアジア的混沌を感じる。公共性に対する無関心から、公共空間を大切にするという発想そのものが欠如しているようにみえる。
なぜこんなことに関心をもつようになったかというと、
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