遍在する「権力闘争」に学ぶ
2021年03月17日
権力闘争の場は、自然科学にも社会科学にも見出せる。同じことがアートにも言える。
自然科学の場合、結局、実験による検証を通じて論文の評価をある程度まで「客観的」にくだせるが、社会科学についてはこうした客観化がきわめて困難である。これを逆手にとって、官僚は科学研究費のばら撒きや審議会メンバーへの登用などによって学者をある程度まで手なずけることができる。学問的な業績がなくても、学会などで偉そうにしていられる制度を築き上げるのだ。
これは、アート作品の国費買い上げが箔付けにつながるのとよく似た構図である。しかも、社会科学や人文科学の分野には、マルクス主義者という「宗教家」のような者が多数存在し、イデオロギーという「色眼鏡」でものごとを眺めることが平然と行われてきた。同じように、アートの現場にも、その評価や価格づけなどをめぐって暗闘が繰り返されてきたことを忘れてはならない。
最近で言えば、絵画の真贋を保証してきた専門家の間違いをただす動きが広がっていることを、The Economistの記事「コンピューターがダメと言う 新しいツールが絵画の認証を容易にしている」が伝えている。専門家と称せられる人々の権威も、「ブロックチェーン」技術には否定されてしまうのだ(「ブロックチェーン」については、拙稿「暗号通貨をめぐる翻訳の混乱」を参照)。まさに、コンピューターと人間との新しい権力闘争が本格化しつつあると言える。
日本画家、平山郁夫は権力にすり寄ることで成功したと言われている。これをもっとも的確に教えてくれるのは、日垣隆の「画家と権力 平山郁夫の肖像」という「文藝春秋」(2004年5月号)に掲載された記事である。
たとえば、「美術界では、文部大臣賞→日本芸術院賞→恩賜賞→文化功労者→文化勲章という順に「格」が上がり、それに連動して「値段」も上がってゆく」という記述がある。さらに、「芸術院会員で2倍、文化功労者で3倍、文化勲章で1号あたり100万円の大台に乗る、というような値上がり方をする」とある。「日本では、高層ビルの玄関ロビーに飾られるような絵は、たいて芸術院会員のものと相場が決まっている」そうだ。おまけに、「自治体や官庁は圧倒的に文化勲章授与者を好む」という。
文化功労者、その約5年後に文化勲章という階段を登りつめるには、有力政治家の後押しが必要とされるから、文化勲章をもらうような画家は政治家と何らかの関係をもっているらしい。それにしても、平山郁夫という画家は異常に突出している。日垣はつぎのように書いている。
「『美術年間』(2004年版)に目を通すと、ここに登場する画家たちの大半は1号あたり数万円であり、日本画の最高価格帯に属する日展幹部や日本美術院同人でさえ数十万円にとどまるなかで、「平山郁夫」に付された600万円という1号あたりのプライスは異彩を放つ。『美術大鑑』、『美術市場』、『美術家名鑑』でも、彼の絵は断トツで400万円から650万円の単価がついている」
平山は権力と癒着することで、自らのアートを大きく見せるという「手練手管」に若くから精通していたという。自分の絵を美術館や文部省などの公的機関に買い上げてもらうことで、「ステータス」を引き上げ、権力に近づき、さらに上をねらうという方法だ。ただし、こうした権力は日本国内の権力にすぎないから、海外のオークションで平山の絵が売れたことは、ほとんどないということになる。
アートをめぐる権力闘争については、思想家、柄谷行人も興味深い指摘をしている。西洋化を基本とする明治日本の近代化のなかでは、諸学問・芸術はすべて近代西洋の模倣を基本とした。漢方医学、漢文学、仏教が受け入れられるようになるのは、近代西洋の学問的方法によって再組織された後であった。しかし、唯一、例外がある。それは美術だ。こう柄谷は喝破する。そして、つぎのように指摘している。
「たとえば、1889年に創立された東京美術学校は、のちに西洋派にとって替わられたとはいえ、最初から日本・東洋美術が中心になっていた。この事実は、たとえば、東京音楽学校が最初東洋音楽を入れなかった事実を見れば、際だっている」(『定本・柄谷行人集4 ネーションと美学』第4巻、岩波書店, 2004, 128ページ)
その典型が音楽、美術、文学などのアート分野の各種の賞であることは明らか
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