「原発マネー」は地域に貢献しない――元祖「原子力村」東海村の前村長が説く「脱原発」論
緊急防護措置の対象区域に約100万人、それで地域防災計画など作れない
石川智也 朝日新聞記者
茨城県東海村といえば、誰もが知るように、日本の原子力発祥の地である。
日本原子力研究所が設置され1957年夏に日本初の原子炉「JRR-1」が臨界に達した歴史的な場所として、教科書にも載っている。その後も、国内第一号原発の東海原発、原子燃料公社(後の動力炉・核燃料開発事業団=動燃)、初の百万キロワット級原発である東海第二原発など、多くの原子力施設が集中立地し、名実ともに「日本の原子力センター」としての地位を築いた。現在、面積38平方キロの村内には12の原子力関連事業所が集中し、その合計敷地面積は村の13%を占める。
日本で最も長く原子力の恩恵を受け続けてきたはずの、原子力立村の元祖とも言えるその東海村の村長が、東日本大震災直後の2011年夏、誰はばかることなく「脱原発」を公言し、村内にある原発の廃炉を明確に国に求めた――そのニュースは当時、全国で再稼働反対運動を進める市民グループを大いに鼓舞した。そして、「原子力ムラ」の住人たちを大いに刺激した。
当時の村長・村上達也(2013年9月に退任)の主張は明快だった。
原発マネーは地域を一時的には豊かにするが、住民から自立・自律の芽とプライドを奪い、あげくはコミュニティーを破壊する。多額のマネーと引き換えに魂を売って一炊の夢を見ても、ひとは豊かになれないどころか故郷すら失いかねない。原発は「疫病神」だ――。
10年目の「3・11」を迎えたいま、村上前村長に、あらためて脱原発への「思い」を聞いた。

東海村の村上達也・前村長=2020年撮影
昂揚感で迎えた「原子力の村」のはじまり
――東海村の日本原子力研究所(原研)で日本で初めて原子の火が灯ったとき、中学生だったそうですね。村上さんにとっての「原子力の村」の原風景はどんなものでしたか。
この田舎の村に最先端の研究所ができる、優秀な研究者たちがやってくるという知らせに、村民は沸き立ちました。まだ中学2年生だった私にも、大きな夢と希望を与えてくれました。舗装路もなかった村内のそこかしこで工事が始まり、太い道路が造られ、コンクリートの団地が並び立ち、村人とはまったく違う顔をした人たちが移り住んでくる。農家が8割で茅葺き屋根ばかりという風景の村に、別世界が舞い込んできた感覚です。様変わりする村の様子を、昂揚感をもって眺めていました。
――原子力というものも、無条件に輝かしいものでしたか?
JRR-1は米国製でしたが、子どものころに進駐軍の兵隊からチョコレートをもらった記憶とともに、米国は絶対的な憧れの存在。星条旗を背負ってやってきた原子炉が日本で唯一、わが村に設置される。そう考えただけで誇らしかったことを覚えています。
――米国は原爆を日本に落とした国でもありますが……。
そのころ盛んに「平和利用」という言葉が飛び交いましたが、原爆の記憶がまだ生々しい時代だっただけに、逆に胸に迫りました。直前の1954年に第五福竜丸の被曝があり、放射能の怖さを訴える声も村内の一部にはありました。でも慎重論や反対はあくまで限定的でした。
――原研の設置と並行して国は東海村へ発電炉建設の準備を進め、日本原子力発電を創業させました。1960年1月には、英国から導入したその日本初の原発「東海発電所」が着工します。
東海原発については、いつの間にか設置が決まったという記憶しかありません。村民の多くは「原研の延長線上の話だろう」という感覚で受け止めていました。原研の研究炉とは桁違いの規模の発電炉だという認識は薄かったと思います。私も、米国に続いて今度は英国の文明がやってくる、と誇らしげに捉えていました。高校への通学中に常磐線の中で見た英国人の立派な体格や物腰を憧れのまなざしで見ていましたね。
無邪気なものです。前例もないからどう反応してよいか分からなかったのでしょうが、原子炉の安全性などという意識はまったくなかったです。いまになって当時の経緯を調べれば、科学的な立地審査で東海村が原発立地の適地とされたわけではなく、とにかく当時の原子力委員長・正力松太郎が発電炉の設置を急ぎたかっただけだということがよく分かるのですが……。