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原発事故から10年、この国の2つの「病巣」を抉る(下)

「主権者としての責任」を果たしたか

今井 一 ジャーナリスト・[国民投票/住民投票]情報室事務局長

原発事故から10年、この国の2つの「病巣」を抉る(上)

「町民は主権者として何をしてきたのか」という問い

 「俺ら、なんもしてねーのに、原発事故で一切合切全部なくした」

 先日、原発事故を振り返るテレビの番組で、双葉郡に暮らしていた高齢の男性がそう語っていた。

 住み慣れた家や土地、長らく耕してきた畑、牛舎などを失い、この10年間、つらい思いで生きてこられた方々の多くは、そんな腹立たしい気持ちを抱いている。それはそうだろう。

 だが、本当に「なんもしてねー」のだろうか。町の主権者として、原発をめぐる自身のこれまでの行いについて、省みることはないのだろうか。

 避難生活を続けている方々には厳しい言い方になるが、国や東京電力や専門家が「大丈夫、安全です」と言っているのだから、それを信じるとして、原発の誘致・増設を東電に求めてきた町長、議員を何十年もの間選んできたのは誰なのか。それは、東電でも政府でもなく、主権者である町民自身にほかならない。

 よく知られる伊丹万作の「戦争責任者の問題」という一文にこんな記述がある。

原発誘致をめぐり、2001年に三重県海山町で行われた住民投票の際のチラシ。住民投票では、反対票が賛成票の2倍を超えた。原発誘致をめぐり、2001年に三重県海山町で行われた住民投票の際のチラシ。住民投票では、反対票が賛成票の2倍を超えた。
 「ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。……だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。……私はさらに進んで、『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したい」

 この論考の前半で、巻町のYさんが福島の原発被災者に「反省しなさい」と批判していることを紹介したが、Yさんは伊丹万作と同じ考えなのだ。そして彼は、自身が騙されなかっただけではなく、騙されている人の目を覚まそうと努めたし、主権者として行使できる選挙権・被選挙権・直接請求権などありとあらゆる合法的手段を用いて東北電力による原発建設を阻んだ。

 そのために、自分たち巻町の人間は膨大な時間と労力を費やし、原発建設予定地となっている「町有地は売らない」と、みんなで決めた。それによって、莫大な交付金も協力金も入ってこないが、それでいいという選択を自分たちは主権者として行なった。一方、あなた方双葉郡4町の人たちは主権者として何をしたのですかとYさんは問うているのだ。

巻原子力懇談会の会報。原発建設の是非をめぐる1996年の新潟県巻町の住民投票では、反対票が6割を超えた。巻原子力懇談会の会報。原発建設の是非をめぐる1996年の新潟県巻町の住民投票では、反対票が6割を超えた。

反原発の闘士から原発推進に転向して町長に

 福島で反原発の県議から原発推進の双葉町長に転向した岩本忠夫は、3.11の直後に避難先で「(東電は)何やってんだ……」と一言叫んだきり、原発についての自身の行いについては何も語らず、同年7月に他界した。

 彼の半生は、原発立地先の政治家の考え方、身の処し方をよく示すものだ。

 いったん原発が設置されると、「原発反対」を掲げていては、原発のお陰で一時的にせよ所得が増えた多数の町民から票を得られず、議員になれない。社会党の県議だった彼は、再選をめざした1975年から3回連続県議選に落選し、政治家を辞めて家業(酒屋)に専念する。だがその後、現職町長の汚職が発覚すると、保守系の人々(その多くが原発推進)に請われて双葉町長選に立候補。岩本は長年掲げてきた「反原発」の看板を下ろして当選し、1985年から2005年まで5期20年間町長を務める。そして、原発増設やプルサーマル導入を積極的に推進した。

 主権者が誰に投票するかはまったく自由だが、岩本を落選させたのも、転向させたのも、当選させたのも、町長としての彼が東電に原発増設を求めるようにさせたのも、みんな選挙権を持つ町民なのだ。自分たちが、原発依存を続けた町政とは何の関係もないし責任もないとは決して言えない。主権者なのだから。

 その岩本が双葉町長に就任して2期目の1991年9月25日、16人の議員(その大半は、東電あるいは東電関係企業で働いている近親者がいる)で成る双葉町議会は、原発に反対していたはずの社会党議員も含め「討論なしの全会一致」で原発増設誘致決議を採択した。この採択を受け、岩本町長は双葉町内全地区で行政懇談会を開いて住民の理解が得られたとし、東京電力、福島県、資源エネルギー庁、科学技術庁に対して正式に「増設要請」を行なった。これが、間接民主主義による「地元同意」の実態だ。

 その「増設要請」直後に、地元紙『福島民友』は町民250人への電話世論調査を実施した。結果は、原発増設に[賛成30%]、[反対30.4%]、[どちらともいえない24.4%]、[分からない10%]、[言えない5.2%]だった。これを見ても、16人の町議による「全会一致」での賛成が、町民全体の意思と大きく異なっていることがよくわかる。

 双葉町において、巻町、刈羽村や海山町が行なったような住民投票をしていれば、賛否は拮抗しただろう。反原発派の一部の人は「勝てないかもしれない」という理由で、原発推進派の人たち同様住民投票に反対するが、もし「賛成多数」となっていたとしても、原発依存路線を認め進めたのは、町長や16人の議員だけではなく、主権者である町民の多数意思であったということが明確になり、事故が起き被害を被った際の責任が、東電のみならず自分たちにもあるということを認めざるを得ない。それは意味のあることだと私は考える。

 岩本のことは、何人もの作家やジャーナリストが自身の著作で取り上げているが、福島県石川郡出身の劇作家・演出家、谷賢一は、『フクシマ三部作』と題した戯曲で、実話を基に1960年代以降の岩本家の人々と東京電力の関わりや、大熊町、双葉町の町長、東電関係者らの動きを生々しく描いている。

 また、いわき市出身の社会学者、開沼博は『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』のなかで、岩本に触れながら、原発立地地域での「政治を成立させるのは「愛郷」のコミュニケーション」だとし、「そこにおいて岩本が『転向』した時期には、もはや『推進/反対』は大きな意味を成さなくなっていた」「もはや反原発の動きは、推進の動き同様に愛郷のなかに取り込まれるのみの存在となる」とし、「愛郷」という点で岩本は一貫していたという。

「何もしてねー」から、原発が次々と

 岩本も県議選での落選が続いた頃は、そういった扱いを受けていたのだろうが、「原発建設に異議あり、反対」と声を上げる住民は変人扱いされ、ワーワー騒がずに国や電力をもっと信じろ!となじられる。

 その事実を示す資料を掲げる。1989年1月に「原子炉再循環ポンプの損傷」事故を起こした東京電力福島第二原発3号機の運転再開をめぐって、双葉町に隣接する富岡町と楢葉町において地元の市民グループが、「『地元同意』とは町長、議会の同意ではなく、住民一人ひとりの同意である」として、事故の翌年(1990年)9月に住民投票の実施を求める直接請求を行なった(別表参照)。だが議会はこれを拒否。その後、請求者らは首都圏の反原発グループと共同して自主管理の「郵便による住民投票」を実施した(注)

福島第二原発3号機の運転再開をめぐり、市民グループが自主管理で実施した「郵便による住民投票」の投票用紙。福島第二原発3号機の運転再開をめぐり、市民グループが自主管理で実施した「郵便による住民投票」の投票用紙。

 そして、その「投票用紙」の自由な書き込み欄に記されていた町民の声を掲載した記録集を、開票後に作成した。「運転再開に同意する」と投票した4,256人のうち2割程度の人が、いろいろな書き込みをしている。そのなかの一部を紹介しよう。

 「国が安全だ、専門家が良いと言うのに何で素人が反対するんだ」

 「なぜ、同じ人間の言うことを信じないのか?」

 「オマエラゼンイン日本
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