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【10】国の遅れは企業の遅れ

日本企業も抜本的改革が必要 とくに法務改革を急げ

塩原俊彦 高知大学准教授

 「ニッポン不全【7】司法改革を急げ:デジタル化で刷新せよ」において、日本の司法制度の後進性を指摘した。だが、この問題は国家レベルの話にとどまらない。国家レベルの後進性は企業にも「伝染」しており、日本の企業法務は決定的に遅れている。そこでもまた、国と同じく、「デジタル化」を急がなければならない。

 いや、日本の国家の後進性は日本の企業の後進性にもつながっている。企業法務ばかりか、環境問題担当の取締役を設置することも必要だし、さらに、ジョブディスクリプション(職務記述書)に基づくジョブ型雇用への移行といった抜本的な改革も行わなければならない。ここでは、とくに企業における法務改革の必要性を中心に論じてみたい。

国家統治と企業統治の同調性

 まず、近代化がもたらした「国家統治と企業統治の同調性」という話からはじめたい。筆者は「腐敗」研究のために、人類の歴史において、どのようにして賄賂を贈る側(贈賄者)と受け取る側(収賄者)が刑事犯罪に問われるようになったかを調べたことがある(その成果をまとめたものが拙著『官僚の世界史』だ)。その際、気づいたことの一つに、国家統治と企業統治に同調性があるということであった。

 その代表的な例はイングランドと東インド会社との統治・経営をめぐる相互関係にある。イングランドの東インド会社は1600年、エリザベス女王から15年を期限として特許状を得て株式会社(joint-stock company)として設立された。ピューリタン革命開始後、1657年、オリバー・クロムウェルの改組によって総会の民主化が実現し、さらに王政復古下のチャールズ2世によって1662年、全社員の有限責任制が許容された。ゆえに、大塚久雄は「オランダ東インド会社が株式会社の起源であるならば、イギリスの東インド会社は近代的株式会社の起源ということができよう」と指摘している(『大塚久雄著作集 第一巻 株式会社発生史論』岩波書店, 1969, p. 492)。

 法人としての近代的株式会社の原型は王権からの自立を宿命としていた。そのためには、その主体化・主権化のために自らの規律や選抜の強化が必要だった。そこに、会社レベルでの腐敗防止策が求められるようになるのだ。これは、「近代においては、官僚制が国家機構だけでなく、私企業においても存在する」という柄谷行人の卓見に対応する(『世界史の構造』岩波書店, 2010, p. 267)。近代的官僚制は資本主義的な経営形態である分業と協業に基づいて形成されたのであり、企業の場合には、その目的が利益最大化である分、その目的合理性がわかりやすい。その目的合理性の強制が国家でも企業でも働き、その強制ルールが腐敗防止ルールの構築につながるのだ。

多くの従者にかしづかれた東インド会社幹部の豪奢な外出風景。1832年の絵

ヘースティングズ事件

 こうした構図のなかで、主権国家への脅威として賄賂が明確な犯罪と認識されたのは、インドのベンガル総督だったウォーレン・ヘースティングズが1787年に腐敗などの嫌疑で逮捕された事件がきっかけであった。1788年2月に上院で裁判が開始され、その後1795年4月に無罪になる事件だ。

 1764年に東インド会社の取締役らは、従業員が贈物を受け取ることを禁じていたが、1773年の規制法(Regulating Act)はこの禁止に議会法の効力を与えていた。へースティングズはいかなる贈物も受け取らないという東インド会社の禁止規定のある陳述書に署名していたから、この義務違反が問われたのである。

 告発者の1人、エドマンド・バーク下院議員はヘースティングズが受け取った贈物が昔からの貢物の延長にあるものではなく、贈手への助力を促す腐敗した近代的ビジネスの実践であるとみなした。バークはこうした贈物が社会的な関係を腐敗させ、部下にも蔓延し、イングランドにまで波及しかねないと訴えたのだ。イングランドの主権国家に対する安全保障上の脅威として、東インド会社がかかわる外国での腐敗が問題視されたのである。特徴的なのは、法人としての近代的株式会社の原型が王権からの自立を宿命としていた点である。だからこそ、その主体化・主権化には、自らの規律や選抜の強化が必要になった。そこに、会社レベルでの腐敗防止策が求められるようになるのだ。

インドから輸入されて生まれた英国の近代官僚制

 ついでに、インドを統治するための官僚制が本国に輸入された話も紹介しておこう。

 1855年に、英国はインドにおいて「インド官僚制度」(Indian Civil Service, ICS)を導入した。インド高等文官採用のための公開競争学力試験が実施されたのである。当時、本国では官僚の選抜に際して、有力者による推薦などで情実人事がまかり通っていたのだが、ICSでは、試験結果のみによる選抜が行われた。当初は、受験資格が英国人だけに限定されていたが、後にインド人にも認められるようになる。東インド会社を通じてインドを統治してきた英国にとって、ICSはいわば企業統治と植民地統治を同じように行うための方法であった(蛇足だが、英文学という授業も英国の優れた文学をインドで教える必要性から生まれたのであり、植民地経営は本国の運営と不可分の関係にあった)。

 ICSの導入は英国内における官僚制の見直し議論と対応関係をもつ。官僚の多くの地位は官吏推薦長官(Patronage Secretary in Treasury)や有力な政治家の介在によって獲得されていた。19世紀に入ると、行政府は官僚制に機能性や効率性を求めるようになる。それがそれまでの「パトロネジ」(patronage)と呼ばれた情実任用に対する批判につながる。

 このパトロネジは、「より高位の社会的・経済的地位をもつ個人(パトロン)が、その影響力や資産を用いて、より下位の人物(クライエント)に保護や利益を与え、逆にクライエント側も人的奉仕を含む様々な支持や助力を提供することでパトロンに恩返しをする、援助を中心とした友好関係」を意味している(水田大紀,「パトロネジの「終焉」」『パブリック・ヒストリー』大阪大学, 2012, p. 47)。

 1853年、それまで公務員制度を管理してきた大蔵省のチャールズ・トレヴェリアンとスタッフォード・ノースコートがまとめた「ノースコート=トレヴェリアン報告書」を契機に、公務員制度改革が開始された(田中嘉彦,「英国における内閣の機能と補佐機構」『レファレンス』No. 12, 2011)。ポストの分類、採用年齢、公開競争試験、筆記試験(教養)、メリットに基づく昇進などの包括的な改革がめざされる。こうして、時の内閣の決定する命令である「枢密院令」(1855年)に基づいて、資格任用制と政治的中立性を根幹とする公務員制度がCivil Service Commission中心に開始された。さらに、1870年の枢密院令によって、公開競争試験の原則も確立するに至るのだ。

特許権から商標権・著作権へ

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 こうして近代化の過程で、国家と企業の統治は同調性を帯びながら、それぞれに進化したことになる。そして、その同調性は基本的に変わっていない。ゆえに、

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