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「殺すぞ」と首相が普天間返還合意を口止め 苦い体験続いた大臣秘書官時代

連載・失敗だらけの役人人生⑮ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

1996年4月、米軍普天間飛行場返還合意について首相官邸での共同会見で発表する橋本首相とモンデール駐日米大使=朝日新聞社

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

大臣に醤油を浴びせる

 官房の大事な役割の一つに、大臣を直接お支えする補佐業務があります。それを大臣の御側(おそば)で担うのが大臣秘書官です。私は、1995年(平成7年)8月から1年3カ月の間に二人の防衛庁長官(衛藤征士郎氏と、1996年1月からは臼井日出男氏=編集部注)に秘書官としてお仕えしました。また、似たような業務として、2001年(平成13年)4月から約3年にわたり総理官邸で総理秘書官の補佐を務めました。

防衛庁長官当時の衛藤征士郎氏(1996年)と臼井日出男氏(1997年)=朝日新聞社

 私が大臣秘書官に任ぜられた1995年(平成7年)は、1月に阪神淡路大震災が発生し、さらに3月には地下鉄サリン事件が起きるなど日本社会に不安が広がっていた時期でした。冷戦終結後、自衛隊は国連PKO等の海外任務を通じて存在感を高めましたが、これら二つの事件の際にその組織力と高い専門技能を示したことで国民の信頼感はさらに高まりました。

 これを受けて、当時の防衛庁内では昭和51年に策定された「防衛計画の大綱」(51大綱)の見直し作業が加速していました。私は、秘書官になるまでの9年間をずっと防衛局(当時)で勤務し、中期防の見直し作業や51大綱見直し作業などに携わっていました。

 御側要員たる秘書官の仕事には、役所の政策などを大臣が理解しやすいように補佐するサブスタンス(サブ)のサポートと、大臣がスムーズに公務や政務をこなせるように日程を整理したり、行動を支援したりするロジスティクス(ロジ)のサポートの二種類があります。防衛局勤務が長かったのでサブ面はあまり心配していませんでしたが、生来の気の利かなさに加え、保守的で融通が利かず柔軟性に欠ける性格のため、ロジのサポートは不安でした。

 実は、秘書官の内示を受けた時に私の性格を知る家内から「あなたみたいに気が利かない人が秘書官?」と驚かれたのですが、その懸念がまさに現実のものとなり、お仕えした二人の大臣には数限りなくご迷惑をおかけしました。

 秘書官に任命された直後の9月に沖縄県で駐留海兵隊員ら3名の米兵が小学生の少女に暴行を加えるという大事件が発生し、俄然沖縄問題が注目を集め、日米地位協定の不平等性などが日米間の大きな問題としてクローズアップされるに至りました。

1995年9月、米兵の少女暴行事件に抗議して沖縄県宜野湾市で開かれた集会=朝日新聞社

 そんな中で、駐日米大使が防衛庁長官を表敬するという日程が入りました。ただ、その日は秋の臨時国会中で大臣が委員会に出席する予定だったため、昼休みに六本木の庁舎で短時間の表敬を受け、すぐに国会ヘトンボ返りするというスケジュールが設定されました。昼食は大臣のお好みの寿司弁当を用意し、時間の節約のため国会から防衛庁へ戻る車内で召し上がっていただくという手はずとなっていたのですが、その車中に悲劇が待っていました。

 大臣の隣席に座っていた私は、いつになく気を利かしたつもりで付属の小皿に醤油を注いで差し上げたのですが、その瞬間に車がカーブを切ったため、あっと思う間もなく醤油が大臣のズボンを直撃してしまったのです。

※イメージです

 揺れる車内でわざわざ小皿に醤油を注いで出そうとした時点でアウトでした。私は痛烈な後悔とともにパニックを起こし、必死にティッシュで大臣のズボンの醤油を拭ったりしたのですが、綺麗になるはずもありません。しかし、大臣は全く動ぜずに何事もなかったかのようにそのまま表敬に臨まれ、国会へ戻られました。

 ただ、国会議事堂に到着してから委員会室に入る前にトイレに寄られて、大臣ご自身がズボンを水で洗われました。その時も大臣は落ち着いておられて、「醤油って結構匂うんだよ。大使もびっくりしたんじゃないかな」とニコニコしながら明るく私に言われるのです。

 人一倍鈍感な私ですが、この時はさすがに文字通り穴があったら入りたい気分で、秘書官をクビになることも覚悟しました。幸い大臣の優しいご性格のおかげでこの件で叱られることは一切なく、クビにもされずに済みましたが、ただでさえ時間がない時に柄にもないことをすべきではなかった、と猛省しました。

首相に電話のかけ方を教わる

 その後同じ年の10月に大規模な県民大会が開かれるなどさらに反基地運動がエスカレートし、11月には駐留軍用地特措法に基づく代理署名を県知事が拒否し、国と沖縄県との全面対決の様相を呈するに至りました。大臣は出張の帰途に空港でこの代理署名拒否問題の発生の報告を受け、総理と対応を協議するためそのまま総理公邸へ直行しました。

 協議の最中に、大臣から沖縄県議会のある議員へ電話をつなぐよう指示されました。当時携帯電話はさほど普及しておらず、総理公邸の固定電話で沖縄県議会へかけようとしたのですが、ボタンが多く複雑でなかなかうまくいきません。四苦八苦していると、なんと見かねた総理(村山富市氏=編集部注)ご自身が懇切丁寧に電話のかけ方を教えて下さったのです。

1994年7月、首相官邸での記者会見を終えた村山首相=朝日新聞社
 

 総理が気さくな方で本当に助かりましたが、日本国内閣総理大臣に電話のかけ方を直接教えてもらった秘書官はそういないのではないかと思います。

 時期が時期だったので、沖縄・米軍問題に関連して多くの失敗をしでかしました。特に、翌1996年(平成8年)1月に総理が交替した後には、新しい総理(橋本龍太郎氏=編集部注)に一度ならず三度も直接叱られました。普通、総理が他の閣僚の秘書官を直接叱りつけたりすることはないのですが、新総理の目にはよほど気が利かぬ秘書官がいると映ったのかも知れません。

 中でも最も印象に残っているのは、通常国会の予算委員会中のことでした。ある日の午後、予算委員会中に隣席に座っていた他省の秘書官から「大臣へ」とメモが回ってきました。すぐ前に座っている大臣に渡すのは簡単ですが、自分が内容を理解できないものを報告する訳にもいきません。そこでまず自分で判読しようとしたのですが、メモを渡してくれた秘書官が「早く大臣に見せろ」とつつくのです。

 仕方なく大臣にお見せし、二人で解読してようやく内容を理解しました。在日米海兵隊のヘリが民間空港へ緊急着陸したという内容でした。

※イメージです

2014年、衆院での審議で=朝日新聞社

 米軍機も自衛隊機も飛行中に異常が発生すると、たとえ些細な不具合であっても重大事故を避けるため予防的に近傍の空港へ着陸します。緊急着陸自体はさほど珍しくないため、民間に深刻な被害を与えたりしない限り速報される仕組みにはなっておらず、またこの時は沖縄ではなく本土の空港での出来事だったこともあり、まだ防衛庁の指揮系統からは報告されていませんでした。

 一方、民間空港での異常事態ということで、総理は警察から直ちに報告を受け、すぐに防衛庁長官へ注意喚起しようと試みられました。私が受け取ったメモは、総理の指示で総理秘書官が書き、閣僚席の後ろに居並ぶ各省庁の秘書官たちの間をリレーされて届けられたものだったのです。

 そうとは知らない私は大臣へすぐには渡さず解読を始めてしまい、気をもんだ総理秘書官が「早く大臣へ報告せよ」と身振りで示していたことにも全く気づきませんでした。そこで、見かねた隣席の秘書官がつついてくれたというのが事の真相でした。

 緊急着陸自体は民間の被害もなかったため、委員会が終了する頃には忘れかけていました。ところが、質疑が終わり大臣と私が退席しようとしていたところ、総理がつかつかとやって来られたかと思うと、まっすぐに私を指さし、委員会室に残っていた人たちが一瞬静まり返るほどの物凄い剣幕で「秘書官、そういう情報はすぐに大臣に上げなきゃダメだっ」と怒鳴ってから立ち去って行かれたのでした。

1998年6月、衆院予算委員会での橋本首相=朝日新聞社

 あまりに突然のことで、得意の貧血で倒れる暇もありませんでした。二人でしばし茫然とし、先に我に返られた大臣が「叱られちゃったなあ。まあ気にするな」と慰めてくださいました。

 後で聞いたところによると、メモが防衛庁長官の手に渡るまでの様子を総理ご自身が横目でチェックしておられたのだそうです。防衛庁の感覚ではそれほど深刻な事案ではなかったこと、秘書官席はとても狭いため周囲の様子に気づくのは困難なこと、手書きのメモが読みにくかったことなど弁解したい点は多々ありますが、沖縄問題や在日米海兵隊問題が取り沙汰されていた時期の振る舞いとして緊張感が足りなかったと言われればその通りです。

 今は貴重な経験だったと笑って振り返ることが出来ますが、大臣の目の前で総理に怒鳴り上げられたのは心理的に結構大きなダメージがありました。

 これだけでなく、大臣の沖縄基地視察に随行した際に風邪をひいて使い物にならなかったこともありました。辛うじて現地まで同行したものの、SPさんから「大臣にうつしたら大変だから一緒に行動しないでくれ」とにべもなく言われ、大臣が視察されている間ずっと基地内の医務室でベッドに横になって休んでいました。大臣は優しい方で、この時も「秘書官は働き過ぎだから」と慰めて下さいました。

直前に知った普天間返還合意

 冒頭に、秘書官の仕事のうちサブ面(政策関連=編集部注)についてはあまり不安を感じていなかったと書きました。ロジ面で数多く失敗したのに比べればサブ面の失敗は少なかったと思っていますが、実は今に至るまで心にひっかかっている一件があります。

 政治家である大臣が、防衛庁という大組織の中でどんな仕事が進行しているのかを全て知ることは不可能です。それを補うため、庁内の出来事に気を配っておくことも秘書官の仕事です。ところが、沖縄問題に関連して、私はそれに失敗したのでした。

 1996年(平成8年)4月12日の朝、日経新聞の一面に「普天間基地、返還へ」という特ダネ記事が掲載されました。米海兵隊にとって普天間基地は極めて重要だとずっと間かされてきた私は、記事を読んだ瞬間にあり得ない話だろうと思いました。

1997年、沖縄県宜野湾市で住宅地の隣にある米軍普天間飛行場。今も変わらない=朝日新聞社

 しかし、その日は参議院の予算委員会が予定されていた上に、金曜日で大臣の定例記者会見もあるので、念のため防衛政策課の担当に電話を入れて確認してみました。私が「こんなことあるはずないですよね?」と問うと、「そんなはずないよ」という答えの後に「アメリカ発の記事だし…我々の知らないところで何かやっているのかも知れないな」という曖味なコメントが加えられました。

 彼の答に軽いひっかかりを覚えながら大臣をお迎えに行き、車中では大臣と「なんか変ですね」「う―ん、でもこんなこと出来たら苦労はないね」などと話していました。そのまま答弁打ち合わせのため国会内にある政府控室(その頃はまだ「政府委員室」と呼ばれていました)に向かったところ、部屋の前に担当局長が待っていて、大臣に「日経新聞の件、なにか総理がお考えかも知れません」と耳打ちするのです。大臣も私も最初は半信半疑でした。

 しかし、委員会が行われている最中に日米合意がなされるかも知れないということと委員会終了後に官邸に来るようにとの指示が伝わって来たため、これは本当かも知れないと興奮する一方、なぜ基地問題の担当閣僚である防衛庁長官に伏せられていたのだろうかという疑間が湧いてきました。

 官邸には防衛庁長官と外務大臣が呼ばれていて、総理本人から本件の経緯について説明がありました。終了後、大臣とともにキツネにつままれたような気分で帰庁しようと官邸の玄関に出たところ、随行していた担当局長が「秘書官、悪いけど大臣と相乗りさせてくれ。君は僕の官用車で役所に戻ってくれ」と言うのです。詳しい事はわかりませんが、車中で局長がこの件の経緯を詳しく説明したのだと思います。

 その夜、総理と駐日米大使の共同会見をテレビで見届けた後、退庁するため正面玄関へ向かう階段を下りながら大臣が「(総理の)円月殺法にやられたなあ」と淡々とつぶやかれたのは、船橋洋一氏の著書「同盟漂流」に描写されている通りです。

米軍普天間飛行場の返還合意を伝える1996年4月13日付の朝日新聞朝刊1面

 漏れ聴いたところでは、総理自らが外務省と防衛庁の限られた事務方メンバーを使って返還交渉を進める一方で、関係者に厳しい籍口令を引き、「(洩れたら)殺すぞ」と固く口止めしていたのだそうです。秘書官の私が情報を聞き込んでくることが出来れば良かったのでしょうが、現実には出来ませんでした。

 それを悔やみつつ、「厳しく口止めされていたとしても、せめて大臣にだけは教えてくれても良かったのではないか」とも考えます。どうすれば良かったのか、今でも時々考えますが答は見つかりません。

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