黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
連載・失敗だらけの役人人生⑮ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
官房の大事な役割の一つに、大臣を直接お支えする補佐業務があります。それを大臣の御側(おそば)で担うのが大臣秘書官です。私は、1995年(平成7年)8月から1年3カ月の間に二人の防衛庁長官(衛藤征士郎氏と、1996年1月からは臼井日出男氏=編集部注)に秘書官としてお仕えしました。また、似たような業務として、2001年(平成13年)4月から約3年にわたり総理官邸で総理秘書官の補佐を務めました。
私が大臣秘書官に任ぜられた1995年(平成7年)は、1月に阪神淡路大震災が発生し、さらに3月には地下鉄サリン事件が起きるなど日本社会に不安が広がっていた時期でした。冷戦終結後、自衛隊は国連PKO等の海外任務を通じて存在感を高めましたが、これら二つの事件の際にその組織力と高い専門技能を示したことで国民の信頼感はさらに高まりました。
これを受けて、当時の防衛庁内では昭和51年に策定された「防衛計画の大綱」(51大綱)の見直し作業が加速していました。私は、秘書官になるまでの9年間をずっと防衛局(当時)で勤務し、中期防の見直し作業や51大綱見直し作業などに携わっていました。
御側要員たる秘書官の仕事には、役所の政策などを大臣が理解しやすいように補佐するサブスタンス(サブ)のサポートと、大臣がスムーズに公務や政務をこなせるように日程を整理したり、行動を支援したりするロジスティクス(ロジ)のサポートの二種類があります。防衛局勤務が長かったのでサブ面はあまり心配していませんでしたが、生来の気の利かなさに加え、保守的で融通が利かず柔軟性に欠ける性格のため、ロジのサポートは不安でした。
実は、秘書官の内示を受けた時に私の性格を知る家内から「あなたみたいに気が利かない人が秘書官?」と驚かれたのですが、その懸念がまさに現実のものとなり、お仕えした二人の大臣には数限りなくご迷惑をおかけしました。
秘書官に任命された直後の9月に沖縄県で駐留海兵隊員ら3名の米兵が小学生の少女に暴行を加えるという大事件が発生し、俄然沖縄問題が注目を集め、日米地位協定の不平等性などが日米間の大きな問題としてクローズアップされるに至りました。
そんな中で、駐日米大使が防衛庁長官を表敬するという日程が入りました。ただ、その日は秋の臨時国会中で大臣が委員会に出席する予定だったため、昼休みに六本木の庁舎で短時間の表敬を受け、すぐに国会ヘトンボ返りするというスケジュールが設定されました。昼食は大臣のお好みの寿司弁当を用意し、時間の節約のため国会から防衛庁へ戻る車内で召し上がっていただくという手はずとなっていたのですが、その車中に悲劇が待っていました。
大臣の隣席に座っていた私は、いつになく気を利かしたつもりで付属の小皿に醤油を注いで差し上げたのですが、その瞬間に車がカーブを切ったため、あっと思う間もなく醤油が大臣のズボンを直撃してしまったのです。
※イメージです
揺れる車内でわざわざ小皿に醤油を注いで出そうとした時点でアウトでした。私は痛烈な後悔とともにパニックを起こし、必死にティッシュで大臣のズボンの醤油を拭ったりしたのですが、綺麗になるはずもありません。しかし、大臣は全く動ぜずに何事もなかったかのようにそのまま表敬に臨まれ、国会へ戻られました。
ただ、国会議事堂に到着してから委員会室に入る前にトイレに寄られて、大臣ご自身がズボンを水で洗われました。その時も大臣は落ち着いておられて、「醤油って結構匂うんだよ。大使もびっくりしたんじゃないかな」とニコニコしながら明るく私に言われるのです。
人一倍鈍感な私ですが、この時はさすがに文字通り穴があったら入りたい気分で、秘書官をクビになることも覚悟しました。幸い大臣の優しいご性格のおかげでこの件で叱られることは一切なく、クビにもされずに済みましたが、ただでさえ時間がない時に柄にもないことをすべきではなかった、と猛省しました。