「不完全な五輪」に成り下がり、開催国なのに過半数が反対――根底に政治不信も
2021年03月26日
2021年夏の東京オリンピック・パラリンピックで、海外からの観戦・観光客の受け入れを断念する方針が正式に決まった。新型コロナウイルス感染の再拡大や、水際での検査態勢強化、一時的な人口増による集団感染の恐れなどを考慮したもので、日本政府や国際オリンピック委員会(IOC)などの立場からはやむを得ない選択だろう。
NHKは翌日の夜に「生討論!」というスペシャル番組を組み、東京五輪はどうあるべきか、アスリート出身者や主催側幹部、識者らが真剣な議論を繰り広げた。
五輪を開催する、しないの判断基準や線引きが明確でない。大会組織委員会の理念が見えない、大半は大会が開かれることを願うが、各方面でそのための努力が足りないのではないか……。本音に近いと思われる厳しい意見、組織内部の悩みも明かされた。
しかし、何かどうも消化不良の感じが残った。スポーツの祭典、平和を望む祭典を可能なら開いた方が良いのは当然だ。アスリートの晴れ姿も見たい。一方で、まだ語り尽くされていない、タブーのようなよどんだ空気感のある問題が背後にあったからだ。
それは、「日本の政治と五輪」の奇妙な関係。政治が五輪に与えた「足かせ」とも言える。
「癒着している」とか「政権による五輪利用」とまでは断言しにくい。
突き詰めれば、東京に五輪を誘致する時からの安倍晋三首相(当時)の言動と、そのうさんくささを引きずっているから。誘致当時の官房長官として安倍氏を支え、政権を引き継いだ菅義偉・現首相が、安倍政権時代を否定できず、今に至るまで自縄自縛に陥っているということだ。
安倍前首相の「自縄自縛語録」のいくつかを振り返ってみる。
②新型コロナウイルスの感染拡大を受けて開かれた2020年3月の主要7カ国(G7)首脳によるテレビ会議の後、安倍氏は、議題の一つとなった東京五輪・パラリンピックについて、「『完全な形』で実現することで(各国首脳から)支持を得た」と記者団に答えた。
③2020年3月下旬、五輪延期が検討され始めた時期に、安倍氏は国会で「完全な形での実施が困難な場合、延期の判断も行わざるを得ない」と述べつつ、「中止は選択肢にはない。この点はIOCも同様だと考えている」と語った。
④同じ国会の場で安倍氏は、「国際社会が大変な悪影響を受けているなか、世界がコロナウイルスに打ち勝った証しとして(五輪を)完全な形で実施していきたいと考えてきた」と強調した。直後にIOCのバッハ会長と電話で協議した後にも、安倍氏は「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして、完全な形で東京五輪・パラリンピックを開催するために、バッハ会長と緊密に連携をしていくことで一致した」と述べた。
振り返れば、子細に検討するまでもなく、どれもこれも、大口、あるいは単なるPR、でまかせだったことが分かる。
①については、津波による福島原発事故による溶融核燃料・デブリを取り出す見込みさえ立たず、取り出したとしてもどう処理するかも決められていない。廃炉計画全体も大幅に遅れそうだ。
2013年9月、安倍氏が五輪誘致の演説をした直後に福島県内で開かれた民主党と福島第一原発対策本部のやりとりで、国会議員の質問に対して東京電力側(フェロー)は「今の状態は申し訳ありません。コントロールできていないと我々は考えております」と答えている。資源エネルギー庁審議官も「今後はですね、しっかりとしたコントロールできるようにやります」と述べた。2021年1月時点でもなお4万人以上が仮設住宅や県外に避難したままで故郷に戻れない。地域コミュニティーも失われ、コントロールとはほど遠い。
安倍氏は「復興五輪」という言葉を多用し、2020年、東日本大震災9周年の献花式でも「復興五輪と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたい」と述べたが、翌2021年3月11日、大震災10周年追悼式での菅首相の式辞からは、「復興五輪」のキャッチフレーズが消えていた。
②③に関しては「完全な形」の定義があいまいなまま、2020年の五輪が延期される理由のひとつにされたが、延期してでも「完全な形」をめざし、中止は選択肢にないという考えは、自ら逃げ道をふさぐ結果になった。
その理屈で言えば、東京五輪の「外国人客受け入れず」の方針は、すでに「完全な形」ではないので、再度延期しなければつじつまが合わないが
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