メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

熊谷俊人・新千葉県知事の100万票差の圧勝から立憲民主党が学ぶべきこと

敵を叩いて自己の正当化する「否定的命題」か、自己の政策で信を問う「肯定的命題」か

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

 それにしても、100万票差には驚いた。

 3月21日に投開票された千葉県知事選である。千葉市長から転じ、「県民党」を標榜した熊谷俊人氏が、自民党が推薦し森田健作前知事の県政を継承すると訴えた関政幸氏らに圧勝した。

初当選を決め、花束を受け取る熊谷俊人氏=2021年3月21日、千葉市中央区

政治の変化を感じた千葉県知事選

 熊谷氏は43歳。全国の知事のでは、北海道・鈴木直道氏の40歳に次ぐ若さだ。投票日は、千葉を含む1都3県に出されていた緊急事態宣言が解除された翌日であり、この間熊谷氏が千葉市長としてコロナ禍に対応した手腕が評価されたことが勝因のひとつだったろう。熊谷氏の得票は千葉県知事選で最高を記録、出口調査によれば自民党支持層の6割以上が、熊谷氏に投票したとみられる。

 自民党の二階俊博幹事長は「当選した候補者が名前も浸透し、地域になじんでいた。別にショックを受けているわけではない」と平静を装ったが、4月25日に衆参の三つの補選を控えての惨敗には違いない。その先には、衆院選や自民党総裁選が待ち構えており、ここで自民党の組織選挙の限界と脆(もろ)さが露呈した意味は重い。

 ただ、それはそうだとしても「菅政権に打撃」といった政局総括には違和感がある。この間の熊谷氏の言動を改めて振り返ると、もう少し違う大きな政治の変化を感じざるを得ないからだ。

昨年3月のインタビューでの熊谷氏の発言

 ちょうど1年前の3月、熊谷氏にインタビューしてこの欄で紹介した。(「新型コロナ対応をツイッターで発信。熊谷千葉市長のつぶやきの本意」

 当時の安倍晋三政権はコロナ禍への対応で混乱を続け、とりわけ小中学校の一斉休校を表明した拙速さが批判を浴びていた。熊谷氏もその批判の急先鋒ではあったが、実際に話を聞くと、彼の真意はメディアがことさらに取り上げた安倍政権糾弾とは別のところにあった。

 熊谷氏は「最終の意思決定を官邸がするのは当然ですが、それはあくまで各省庁から情報と課題が十分に集まった結果でなければなりません。その吸い上げが不十分だと情報のないまま判断することになり、官邸主導の良さが生かされません」と指摘したうえで、「今後も新たな課題が次々と生じるでしょうが、現場の声を政府の意思決定にいかしてほしいと願います」と期待を語った。

 もとよりインタビュー前にツイッターで、「私は特定政党に与する気もありませんし、安倍総理が辞めるべきとかそういう次元の話ではなく、みんなで前を向きながら、それぞれの立場で問題点の指摘と提言を重ねた方が難局は乗り切れると考えます」と発信した熊谷氏だ。自分の発言が政局上の党派的な対決構図によって矮小化されるのを避けたいという思いと、政府と自治体が敵対でなく連携の関係を維持・改善していくべきだとの思いの二つが濃厚にあった。

圧勝は実績や政策で信を問う「肯定的命題」の結果

 千葉県知事選での発言もその延長線上にある。

 公式Webサイトの「知事選へ出馬表明にあたり」と題した文書にも、告示後の第一声にも、森田前県政や菅政権・自民党への批判は見当たらず、代わりに自らの市長時代の実績と具体的な公約を訴える姿勢で一貫している。

 「出馬表明にあたり」では「31歳の若さで政令市の市長経験を得ることは普通はなく、この貴重な経験を当たり前のものと考えず、社会に還元しなければならないと長年考えてきました」と県政への転身を目指した理由を説明した。10項目の公約を挙げたが、それも「アクアライン800円の維持・恒久化」など前県政から継承するものと、「AI時代、コロナ禍も見据えた千葉県の教育の充実」「行政のデジタル化を推進し、県民に時間を返す行政改革の徹底」といった新たに加えるものとでバランスをとる意識が鮮明だった。

 第一声は一昨年の房総半島台風の被災地で行い、「自らの被災経験、これまでの危機管理経験から災害に強い千葉県づくりをしていく」と訴えた。それに先立つ出陣式には、支援する立憲民主党の野田佳彦元首相ら国会議員の姿もあったが、公明党の富田茂之衆院議員は「(知事選は)与野党対決ではない」と訴え、熊谷氏も「千葉県のことを考える選挙だ」と強調した。

 こうしてみてくれば、熊谷氏の百万票差の圧勝は、既存の権力を認めるか否かといった対決構図の結果ではなかったことがわかる。それどころか、逆にあえてその構図を避けた訴えの姿勢が、自民党支持層を含めた広範な有権者の投票を促したのではないか。

 敵対勢力を叩いて自己の正当性を示そうとする「否定的命題」でなく、あくまで自己の実績や政策により信を問う「肯定的命題」の確かさが勝因だとすれば、その変化こそ注目されるべきだろう。

当選から一夜明け、取材に応じる熊谷俊人氏=2021年3月22日、千葉市中央区

敵・味方を峻別する「劇場型政治」が流行した平成

 思えば、戦後昭和期の自民党長期政権の時代が終わった平成の初め以降、それと全然別個の流儀が流行した。それは、敵と味方を峻別(しゅんべつ)し、新旧の対決構図を演出することにより、世論を喚起する「劇場型政治」だ。

 1993年と2009年の二度にわたる平成の政権交代は、まさにその対決構図のもとで起きた。

 1993年は、小沢一郎氏が政治改革に不熱心な自民党を「守旧派」と呼び、自分たちを「改革派」と称して、衆院選後の連立政権工作を主導した。新党ブームにより躍進した日本新党と新党さきがけが「非自民」の輪に加わった結果、自民党に代わる細川護煕8党派連立政権が誕生した。

 2009年は、民主党が「政権交代。」の旗印を掲げて、衆院選で単独過半数を得た。その実態はやはり、政権公約や政権担当能力の練度を十分に示した結果というより、自民党政治からの決別を訴え、新旧交代の図式の演出に成功したことが勝因だったろう。

 ただ、劇場型政治は「非自民」の専売特許ではない。二度の政権交代の狭間(はざま)の2001年に登場した自公政権の小泉純一郎首相もそうだった。

 派閥政治を「仮想敵」と定め、自らを「小泉改革」の旗手に仕立てて総裁選を制し、自民党の首相なのに「自民党をぶっ壊す」と叫んで世論の喝采を浴びた。05年には、党内の造反で郵政民営化法案が参院で否決されたのを逆手にとって衆院を解散。本来、与野党の政権選択選挙であるはずの衆院選を、党内「守旧派」の殲滅(せんめつ)戦に使い、自民党に圧勝をもたらした。

 議会制民主主義の筋論からすれば明らかな「奇手」だったが、突風が吹きやすい小選挙区制重視の衆院選挙制度を巧みに利用した結果だった。対決構図を煽(あお)り、風を吹かせたほうが勝つという劇場型政治の刹那さの極致とも言えた。

小池百合子氏が体験した成功と失敗

 だが、祭りのような政局劇を見せられた後、

・・・ログインして読む
(残り:約1080文字/本文:約3915文字)