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「戦犯」の無念晴らされず~李鶴来さんに日本が強いた96年間の「不条理」

日本人として酷使され、戦後は日本籍剝奪・収監。謝罪すら得られぬまま死去

市川速水 朝日新聞編集委員

拡大3月28日に亡くなった李鶴来さん。自分の体験を広く知ってもらうために、積極的にメディアの取材を受けた。写真は2017年7月の朝日新聞のインタビューで

不条理の連続。日本支配下で強いられた監視業務

 今の韓国・全羅南道出身の李さんは、生まれた時から「日本人」だった。

 開戦間もない1942年、17歳の時、俘虜(ふりょ)収容所の監視員募集に応じた。「農家に生まれた自分は、面事務所(村役場のような機関)から応募しろといわれ、2年の約束で給料も出るというし、徴兵や徴用よりはましだと考えた」という。その後、タイの俘虜収容所に配属される。

 大戦史に残る過酷な作戦として知られるタイ・ミャンマー間の泰緬(たいめん)鉄道建設作業のため、多くのオーストラリア人捕虜らが強制労働に駆り立てられた。李さんは上官の命令に従って使役監視業務に携わり、厳しい労働に加え食糧や医療不足が重なって多くの捕虜が死んでいくのを目の当たりにした。

敗戦で戦犯容疑、死刑判決

 1945年8月、バンコクで敗戦を迎えた。

 祖国に帰れると喜んだのも束の間、翌9月以降は捕虜を虐待したとして連合国側からBC級戦犯の容疑をかけられた。シンガポールに移送され、一度は起訴の却下で釈放されるが、引き揚げ途中、香港で拘束され、再びシンガポールへ。オーストラリアによる軍事裁判で死刑判決を受けた。

 日本軍は、捕虜と直に接する捕虜監視員に、朝鮮人や台湾人をあてることが多かった。日本の敗戦後、捕虜らが、顔見知りの彼らを真っ先に告発するケースも多かった。

日本籍を一方的に剝奪され収監続く

 李さんは死刑から有期刑に減刑された後、1951年8月、シンガポールから日本へ移送され、日本人戦犯と同様、東京のスガモ・プリズンに収監される。

 その1カ月後、日本はサンフランシスコ平和条約に調印し、連合国からの独立が決まった。翌52年4月、条約の発効を目前に、日本政府は「朝鮮人は日本国籍を喪失する」と通達を出した。さらに、日本の独立後、政府は軍人らに手厚い補償を始めたが、日本籍を一方的に剝奪された朝鮮人は収監され続けた。

 李さんが仮釈放になったのは日本独立から4年後の1956年だった。


筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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