[233]「赤木俊夫ファイル」ヒアリング、宮城県南三陸町、『大地を受け継ぐ』……
2021年04月05日
3月10日(水) 早朝、NHKのBSで世界のニュースをみていたら、フランス2(ドゥー)が「<3・11>福島から10年」をトップニュースで報じていた。何とそこに鵜沼久江さんもちょっとだけ登場していた。ロイター通信の取材だろう。彼らの取材を受けると言っていたから。
一方、ドイツのZDF(第2ドイツテレビ)はコロナワクチン一色だった。そしてバッハIOC(国際オリンピック委員会)会長が再選されたと。同じドイツ人の誇りということか。
17時半から国会内で、森友事件で近畿財務局の元職員・赤木俊夫さん(2018年3月7日に自死)が改ざんの経緯を詳細に記して作成したとされる「赤木ファイル」に関する野党合同ヒアリング。この「赤木ファイル」をめぐって財務省から意見聴取。その場でI統括官(赤木さんの当時の直属の上司)の音声テープが流された。実に生々しい。ファイルが実在することのいわば「動かぬ証拠」(階猛衆議院議員)である。財務省側は一切内容のあることを答えない。一寸の隙も見せないという決意が感じられるような対応だった。
ヒアリング終了後に財務省幹部にぶら下がりを試みようとしたが、脱兎のごとく逃げ去られた。それにしても、ひとりの国家公務員の尊厳を、死後に至るまで蹂躙し続ける財務省の姿勢は、後世の語り草になるだろう。彼らは誰から何を守っているのか。
その後、赤坂でNさんたちとの懇談。今の日本でまともに声をあげているのは、Nさんのような元気な女性たちである。故・筑紫哲也さんの熱烈・吉永小百合ファンぶりをめぐって歓談が続いた。筑紫さんらが、かつて大分県・日田の「自由の森大学」で吉永さんを講師として呼んだ後、食事会となったのだが、お手伝いをしたNさんら女性陣も当然参加するものとばかり思っていたら、筑紫さんから「君たち、お帰りになって結構ですよ」と「ところ払い」をさせられたことを、半ば憤慨しながら、本当に楽しげに、懐かしげに語っていた。とてもおかしいエピソード。サユリストって、ほんとに可笑しいわね、とNさん。
3月11日(木) 午前10時過ぎに東京駅を発って12時40分に仙台着。毎年利用させてもらっているタクシー会社と待ち合わせ、合流後に南三陸町へ。南三陸町の旧防災庁舎(鉄骨のみが残った)を見下ろす公園敷地にはたくさんの人々が弔問、祈りに訪れていた。14時46分に町内に一斉にサイレンが鳴って人々が黙とうを行っていた。
僕はと言えば、南三陸町で道路が渋滞してしまい、Sさんのお宅に向かう車の中にいた。1年ぶりに再会したSさんはお元気だった。自宅で津波にあい、お連れ合いを亡くされた。ご本人は命からがら助かった。大量の水を飲んで肺をやられたが、その後奇跡的に回復されて、農作業を一人で行うまでになっている。とても快活、陽気な方で、強い。90歳になろうとしているのに気力があってお元気だ。会うたびにこちらが励まされるのだ。
コロナ禍を配慮して、屋内と屋外でマスクをしながら短時間お話をうかがった。いつか、自らが植林した山の杉林を見に行きたいとおっしゃっていた。以前よりは少々耳が遠くなられたようだ。ご自宅の前にはSさんが耕して野菜を育てている畑があった。自宅で食べるものの一部はここで作っているとのこと。わずか30分ほどで辞去した。
その後、水産加工業の行場商店、献花場のあるベイサイド・アリーナ、最後に南三陸町の佐藤仁町長とお会いした。佐藤町長は僕らの取材時のことをよく覚えていてくださって、当時の苦しかった状況の思い出などを語っていた。カメラなし・アポなしの表敬訪問であるにもかかわらず快く迎えいれてくださった。南三陸という町は、さまざまな意味で豊かさと濃密な人間関係が残っていると思った。10年前、被災直後の避難所ベイサイド・アリーナで目撃したさまざまな出来事を脳裏で反芻していた。実にいろいろなことがあった。
車で仙台まで引き返す。運転手さんから、いかに吉川晃司が素晴らしい人物かを、とうとうと話された。彼は被災地のボランティア活動をしっかりと、しかも人知れず黙々と行っていたそうだ。僕は知らなかった。
夜、約束していた東北大学の長谷川公一教授と会う。彼は今年東北大学を退官して名誉教授となった。何を隠そう、大学時代の同じ高橋徹ゼミの仲間だった。お互い、いい歳になったもんだ。「今日の河北新報は必読だよ」と彼から教えられた。
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