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脱「ドメ派」へもがいた英会話 中東出張でなぜかモスクワへ 「課長が行方不明!」

失敗だらけの役人人生⑱ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

拡大1989年、松下電器産業提供

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

「日本の役所で英語、嫌だねー」

 ここまで個々の仕事における失敗の経験を中心に述べてきましたが、今回は役人生活を通じて悔いが残っていることを紹介したいと思います。その第一は、何と言っても英語の勉強です。

 私がまだ若手だった昭和末期の時代、内部部局のキャリア職員には英語研修の機会などが一応は与えられていました。しかし、人事院から防衛庁に割り当てられていた留学枠が少なかったこともあり、留学経験者は1~2年に1人程度しかいませんでした。また、当時のメインストリームだった防衛力整備に携わる人たちの間には「自分たちの仕事の相手は各幕(陸海空各自衛隊を管理する制服組の組織=編集部注)や大蔵省であり、留学経験や英語能力など必要ない」というよう意識がありました。自らを「ドメ派」と称し、殊更に英語能力を軽んじる人たちもいました。

 そんな雰囲気を象徴するような場面に出くわしたことがありました。部員になって二、三年経った頃だったと思います。ある先輩幹部が配下の課に顔を出したところ、たまたま一人の職員が米国国防省のカウンターパートに国際電話をかけて英語で調整していました。すると、それを聞いた幹部が大声で「嫌だねー、ここは日本の役所なのに英語でしゃべっている奴がいるよ、嫌だねー」と言ったのです。

拡大1985年、東京・檜町にあった防衛庁=朝日新聞社

 私自身も当時は英語や海外留学にはあまり関心を持っていなかったのですが、さすがにこの発言には違和感を覚えました。しかし、入庁三年目に受けた英会話研修の成績が冴えなかった上、その後も仕事で英語を使う機会が乏しかったこともあり、「語学よりも仕事の中身だ」などとうそぶきながら結局真面目に英語を勉強しないまま日々を過ごしていました。

 ところが1988年(昭和63年)3月に、情報本部構想を具体化するため一か月の米国調査出張を命じられ、一挙に不勉強のつけを払わされることとなりました。役所も派遣は命じたものの私の乏しい英語力に懸念を持ったらしく、留学経験のある陸上幕僚監部の二佐(係長クラス=編集部注)が同行してくれました。

 思えばこの調査出張は最初から波乱含みでした。成田からロサンゼルス乗り継ぎのUA便でワシントンDCへ向かったのですが、出発が2時間ほど遅れた結果、ロスで乗り継ぎ便に間に合わず、スーツケースだけがDCへ送られてしまったのです。我々は文字通り身一つで西海岸に取り残され、いわゆる「Red Eye Special」(深夜便です)で翌朝にDC入りする羽目になりました。初めての米国本土への旅の出鼻をくじかれ、先行きに暗雲が垂れ込めたのを感じました。

※写真はイメージです

拡大2011年、北九州空港=朝日新聞社

 悪い予感は的中し、最初の二週間は文字通りの地獄でした。ナチュラルスピードの英語がちっとも理解できず、山ほどブリーフィングを受けても理解できるのは3割ほどでろくに質問もできず、まして夕食会などでのソーシャルな会話には全くついていけないという日々が続きました。周囲がすべて紅毛碧眼の外国人という環境そのものに大きなストレスを感じ、平常心で会話することも出来ず、同行してくれた二佐の方におんぶに抱っこの状態でした。


筆者

黒江哲郎

黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官

1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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