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娘の出産に夜遊びで遅刻 息子とのゴジラツアーをドタキャン 家族に迷惑の日々

失敗だらけの役人人生⑲ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

心にこたえた息子の涙

 防衛政策課に部員として勤務していた1993年(平成5年)頃、小学生の息子は御多分に洩れず怪獣映画に夢中でした。私も子供の頃にゴジラやウルトラマンが大好きだったので、夏休みなどにはよく息子と一緒に怪獣映画を観に行きました。大抵は防衛庁が撮影に協力しているので、エンドロールを観ながら「お父さんの役所が出ている!」と息子と二人で盛り上がっていました。

 その頃、たまたまゴジラ映画のエキストラツアーの抽選に応募したところ幸運にも当選し、私と息子が二人で参加することとなったのです。これはゴジラ映画の撮影にエキストラとして参加してゴジラから逃げる役を演じたり(運が良ければ映画にも映るのです)、撮影所を見学したり、怪獣弁当を食べたりするというツアーで、実は息子ばかりでなく私も大いに楽しみにしていました。

※写真はイメージです

拡大2001年、公明党のCM撮影シーンを編集した「メーキングムービー」から =朝日新聞社

 ツアーは日曜日の予定だったので、いかに超多忙な防衛政策課だとしても参加可能だろうと思っていたのですが、直前の金曜日頃から雲行きが怪しくなってきました。ちょうどその頃行われていた外務省の組織改編に関する法令協議が難航し始めたのです。「安全保障政策」や「軍備管理」は外務省の専管事項か防衛庁も所掌しているか、というのが争点でした。

 「安全保障政策」はもともと防衛や外交の総体なので、どちらか一方が専管するなどと決められるはずもないのですが、当時の役所は不毛の縄張り争いが得意でした。この二年後に防衛政策課に新設された「信頼醸成・軍備管理軍縮企画室」の初代室長に任命され、外務省へ新任の挨拶に行ったところ「軍備管理軍縮は外務省の専管ですから受け取れません」と文字通り名刺を突き返されるような時代でした。

 局長や次官を務めるようになった頃にはこうした悪しき伝統は姿を消していましたが、職員の幸せのためにも不毛の闘いが復活しないことを祈ります。ともあれ、当時の「無制限の自己犠牲こそが美しい役人道」という風潮に流されて、結局私はツアーのことを上司に言い出す覚悟が出来ませんでした。土曜日になっても議論は決着せず、いよいよ翌日の日曜日も出勤必至となりツアー参加は絶望的となりました。

 その夜、家内に電話して「行けなくなった」と伝えたところ、家内は黙って息子に電話を代わりました。すると、日頃はとても聞き訳の良い息子が、電話の向こうで一言も発せず声を殺してシクシク泣き続けるのです。正直、これはこたえました。

※写真はイメージです

拡大1977年、大人に受話器を支えられ、黒電話で話す子ども=朝日新聞社

 この一件は、その後に自分がワークライフバランス(WLB)や職場環境の改善にこだわるようになった大きなきっかけでした。くだらない役所のメンツにこだわって、課全体が中身のない仕事に拘束され、職員が休日出勤を強いられるような雰囲気は絶対に変えなければいけないと心に決めました。

 結局、ツアーには私の代わりに家内が参加しました。家内の怪獣に対する理解度ははるかに私に及ばなかったので、息子には不満が残ったようでした。この映画も封切り後に息子と二人で観に行きましたが、残念ながら息子と家内は映画には登場していませんでした。

 ちなみに、ここぞという時に子供たちを使って私を説得するのは、家内の常とう手段でした。若い頃の私は一日に三箱吸う時もあったほどのヘビースモーカーだったのですが、1995年(平成7年)の正月休みを機にきっぱり煙草をやめました。理由は、子供たちに泣かれたからです。私の喫煙をやめさせようと考えていた家内は、ひそかに子供たちに言い含めて私の前で「お父さん、死んじゃうから煙草やめてー」と泣かせたのです。おかげで私は煙草と決別し、今は健康な生活を送れています。

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筆者

黒江哲郎

黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官

1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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