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独裁者・習近平への「宥和策」は必要か

「より長い電報」への返信:カズオ・イシグロ『日の名残り』に導かれて

塩原俊彦 高知大学准教授

 米シンクタンク、アトランティック・カウンシルが2021年1月末に公表した「より長い電報:米国の新しい対中戦略に向けて」が話題を集めている。米外交官、ジョージ・ケナンが駐在先のモスクワから国務省に送った「長文電報」に由来するこの論文は、ソ連封じ込め戦略を決定づけたケナン論文にちなんで、中国に対する米国の「耐久性と実行性のあるアプローチ」たる外交戦略の根幹を提案している。

 論文では、「21世紀の米国と民主主義世界が直面する唯一の最も重要な課題は、習近平政権下で権威主義と攻撃性を強めている中国の台頭である」としたうえで、「米国の対中戦略・政策は習近平とその側近(インナーサークル)の断層に焦点を当て、彼らの目的と行動、ひいては戦略的進路を変えることを目的としなければならない」と指摘されている。

 この論文は、匿名で書かれている。「米国がこの時代の特徴的な地政学的課題に立ち向かう上で、著者の洞察と提言が極めて重要であることを考慮して」、匿名とされたという。中国の台頭は、ナチス・ドイツの台頭に悩まされた1930年代のヨーロッパを想起させる。そこでここでは、ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』に導かれながら筆者が考えた「短い論稿」をこの「長い電報」への返信として書いてみた。

 『日の名残り』に登場する主人公の執事スティーブンスが仕えたダーリントン卿は、ヴェルサイユ条約による対ドイツ制裁に疲弊するベルリンの状況に衝撃を受け、「この世に正義を」もたらすために、ドイツへの苛酷な条項を改訂せんと奔走した。その舞台の一つがスティーブンスの働くダーリントン・ホールであった。ダーリントン卿は架空の人物だが、ドイツの対ナチ宥和政策の失敗を批判されることの多い英国首相ネヴィル・チェンバレンを想起させる。

 その意味で、この小説におけるダーリントン卿の言動は、いま現在の中国にどう向き合うべきかを考えるための視角を提示してくれる。同時に、過去に向き合うことで、現在のあり方を見つめ直す契機にもなる。

拡大ミュンヘン会談に参加した各国首脳。前列左から、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ヒトラー、ムッソリーニ=1938年9月29日

米、英、カナダ、EUによる対中制裁:日本は蚊帳の外

 まず、中国の習近平国家主席は近年、明らかに独裁化している。2018年に憲法改正を実施し、「中華人民共和国主席および副主席の任期が2期を超えて連続して就任できない」とする規制を削除することで、死ぬまでトップの座に君臨する道を拓いた。チベット人やウイグル人への迫害、香港の「一国二制度」の無視・中国化、南沙諸島海域の実効支配、ミャンマー軍事クーデターへの支援などを通じて、習は中国権益の維持・拡大戦略に邁進している。

 これに対して、最近になって、米国、欧州連合(EU)、英国、カナダはそれぞれ、新疆ウイグル自治区での人権侵害を理由に中国に対する制裁措置を発表した(2021年3月22日付の「ワシントン・ポスト電子版」を参照)。これは、中国北西部のウイグル人をはじめとする少数民族に対して長年にわたって行われてきたキャンペーンの責任を北京に負わせることを目的とした協調的な取り組みだ。

 まず、3月22日にEUが中国の人権侵害に対して中国当局者4人に渡航禁止と資産凍結の措置を取るなどと発表し、ほどなく米国のアントニー・ブリンケン国務長官は新疆制裁リストに2人を追加すると発表した。英国はEUと同じく、中国政府関係者に対して、資産凍結と渡航禁止を約束した。カナダも同様の措置をとるとした。

 EUは2020年末、人権を侵害した外国当局者に制裁を科す法律、すなわち、いわゆる「マグニツキー法」を制定した。この法律はロシア当局の腐敗を告発した弁護士のマグニツキーがモスクワで拘束後、獄中死した事件をきっかけに、米国でロシア政府を対象に2012年に制定されたものである(詳しくは拙稿「「プーチン宮殿」だけではないプーチンの正体」を参照)。2016年になって、同法は対象国を問わず適用できるように改正された。こうした米国の人権侵害を抑止するための措置にEUも2020年になって同調するに至ったことになる。

 ブリンケンはツイッターで、「英国、カナダ、EUとともに我々は一体となって、人権を侵害する者に説明責任を果たすよう促す」とした。まさに、日本は蚊帳の外に置かれたまま、米英カナダEUによる人権外交が展開されるに至っている。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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