失敗だらけの役人人生㉙(最終回) 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2021年09月09日
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんが回顧する連載、今回は最終回です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
2017年(平成29年)7月28日付で事務次官の職を辞し、足掛け37年に及んだ私の防衛省勤務は終わりました。入庁以来、数えきれないほどの失敗を犯してきたことは既に述べました。それらの失敗一つひとつから教訓を得て、次の仕事につなげて来たつもりだったのですが、役人人生の最後の最後に最大の失敗をし、それが原因で辞職することになりました。いわゆる、南スーダン日報問題です。
南スーダンは2011年(平成23年)にスーダンから独立しました。その際、国連PKO部隊である国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)が設立され、自衛隊もこれに参加しました。しかし、その後も国内の民族間の派閥争いなどにより政情不安が続き、2016年(平成28年)7月には大統領派と副大統領派の間で大規模な武力衝突が発生し、自衛隊が宿営していた首都ジュバも緊迫した状況となりました。
問題となった日報は、派遣された部隊が派遣元の陸上自衛隊中央即応集団(CRF)に日々の状況などを伝えるために作成した報告資料です。武力衝突当時の現地の状況についても記述されているため、7月の衝突後に開示請求がなされました。いわゆる南スーダン日報問題は、この情報公開請求に対して不適切な対応があった、というものでした。
本件は、時系列的にも内容的にもかなり複雑でややこしい事案です。多くの人たちが関わっており、一つの事柄でも関係者それぞれが違う方向から見ているため、受け止め方も異なるものと思います。このため事実関係の細部については、防衛監察本部が関係者多数からの聴き取りをまとめて2017年(平成29年)7月27日に公表した「特別防衛監察の結果について」(以下、「監察結果」と呼びます)に譲ります。
また、本稿の目的は私自身の反省ですので、以下には自分が関与した場面について記述しますが、事案が発生してから既に4年が経過し、その間に私自身の記憶も上書きされている恐れもあります。このため、可能な限り監察結果の記述を忠実に引用しながら当時の私の思考や感情を思い起こし、何をなぜ間違えたのか、何を教訓・反省とすべきか等について整理してみたいと思います。
2016年(平成28年)12月、統幕総括官から日報に関する最初の報告を受けました。内容は、10月に南スーダン派遣施設隊の日報の開示請求があったが、当該日報は用済み後破棄の取扱いであり既に存在しないため不開示とされた、これに対して自民党行革推進本部等から疑義が呈されているので再探索する、というものでした。「日報が用済み後破棄?」と軽い驚きは覚えたものの、ルール通り破棄されているか否かを確認するというだけの問題だと理解し、深刻な問題とは受け止めませんでした。
その後2017年(平成29年)1月27日、タイのバンコクで開かれていた防衛駐在官会議に出席していた時に、監察結果にある通り統幕総括官から国際電話を受け、探索中の日報が統幕にあることが判明したところ、陸自にも個人データとして存在していたことが確認された、両者の扱いをどうすべきか、と相談がありました。
私は日頃から役所の資料のうち興味ある部分だけ差し支えない範囲でコピーして保存し、講演などを行う際の参考にしていました。こうして作ったファイルを「個人データ」だと考えていたので、陸自に存在する個人データも様々な資料の断片をランダムに集めた私のファイルと同じようなものと受け止め、「陸自に存在する日報は、公表に耐えられる代物であるか不明である」(監察結果)との判断を統幕総括官に伝え、統幕に残っているきちんとしたデータで対応すれば良い旨を指示しました。
バンコクから東京へ戻ってからは、直後の2月4日に予定されていたマティス米国防長官の初来日の準備に没頭し、日報のことはすっかり忘れていました。米国第一のトランプ政権誕生直後で同盟の行く末を心配する声が上がる中、マティス長官は日米同盟の重要性と日本の貢献を高く評価し、我々の懸念は払しょくされました。日米防衛首脳会談が大成功に終わり大臣以下関係者が一様にホッとした直後に、日報問題に火がつきました。
統幕で日報が見つかった旨を2月6日に自民党行革推進本部へ報告したところ、即座にそれがSNSにアップされ、マスコミが「不存在とされていた日報が実は存在していた」「組織的隠ぺいか」とセンセーショナルにフォローし、野党も国会で追及を始めました。それでも、本件は実務的で単純な問題だと受け止めていたため、丁寧に説明すればそのうち批判もやむだろうと思っていました。しかし、その後も問題は沈静化せず、日報の中で使われていた「戦闘行為」という用語が不適切だとか、統幕における日報の保管状況に問題があるなどとして連日追及が続き、戦線が拡大して行きました。
思いがけず問題が長引いて対応が後手に回り、様々なレベルで断続的に打合せが続く中、2月15日の朝に陸幕長から「CRF司令部の一部の端末に本件日報が保有されている状況、2月上旬まで陸幕及びCRF司令部の複数の端末に本件日報が保有されていたこと」(監察結果)について報告を受けました。タイで受けた国際電話で個人データの件は聞いていたので、陸自に残っていたこと自体に驚きは感じませんでしたが、残っていた日報の数がずいぶん多いなと感じました。
他方この頃、私は日報問題に対する「理不尽な批判」に憤るとともに、問題の長期化に焦りを感じていました。7月の武力衝突が相当厳しい様相だったことは既に公知の事実となっていたこともあり、この時点で私は日報の意図的な隠蔽の可能性など想像もしていませんでした。このため、日報に関する一連の経緯が「破棄されずに残っていたものを見つけて公表し、情報公開法上の義務を果たしたのに、逆に隠蔽呼ばわりされている」という理不尽なものに見えていたのです。
加えて、既に公表から10日近く経って国会でも議論が進んでしまっており、日報の保管状況を詳しく調べ直す時間的余裕があるとは思えませんでした。なおかつ、当時は主に統幕が追及の矢面に立たされており、陸自の日報保管状況はさほど大きな論点にはなっていませんでした。そんな中でわざわざ陸自に残っていた日報について問題提起して更に議論を混乱させるのは避けたいと考えました。
このため、「防衛省として日報は公表していることから、情報公開法上は問題ない」(監察結果)とし、陸自に残っていた日報は個人データだと整理して対外説明する必要はないという方針を示しました。
その後も国会で議論は続きましたが、そのうちに森友問題などが浮上し、いったんは追及が下火になりました。ところが、3月15日の夜に突如「陸自が一貫して日報を保管していたなどとする報道」(監察結果)が出ました。この報道を受けて大臣はすぐに特別防衛監察を実施すると決断され、監察が開始されました。
監察の過程で私自身も何度か聞き取り調査を受け、監察結果においては「陸自における本件日報の取扱いの状況を確認することにより、対外説明スタンスを変更する機会があったにも関わらず、陸自において本件日報は適切に取り扱われているとの対外説明スタンスを継続した」(監察結果)行為が職務遂行義務違反に当たると認定されました。これを受けて四日間の停職処分を受け、即日事務次官の職を辞することとなりました。事務次官が停職処分を受けて辞職したのは防衛庁時代を通じておそらく史上初めてのケースだと思います。私の役人人生は、極めて不名誉な形で幕を閉じました。
懲戒処分の直接的な理由は2月15日朝の判断間違いでしたが、これには複数の原因があったものと思います。
第一に、日報を公表した直後に始まった報道や野党の「隠蔽キャンペーン」が予想外に長引いたことに苛立ちを感じ、強く反発し、冷静さを失ったことです。事態の収拾を急ぐあまり、目先の混乱回避を優先して事実の解明に目をつぶるという誤りを犯した結果、大臣は繰り返し国会で不正確な答弁をすることとなり、最終的に大臣を辞任に追い込むこととなってしまいました。
第二に、「個人データ」に関する思い込みです。タイで国際電話を受けた時点であれ2月15日に陸幕長から報告を受けた時点であれ、「個人データ」なるものの定義や内容、さらには保管状況等の実態を精査すべきでした。しかし、日報がルール通り破棄されていたかどうかという実務的で単純な問題だと見誤っていた上、「個人データ」という言葉から自分のファイルを連想してしまい、明示的に確認することを怠りました。
第三に、タイから帰国した後、間近に迫った日米防衛首脳会談に気をとられ過ぎてフォローを怠った上、問題がこじれると自分一人で処理しようと抱え込んだことです。官房などの関係部局を巻き込んで組織的に対応していれば判断ミスを防げたのかも知れません。13年前、16大綱の作業に集中し過ぎて中国原子力潜水艦に不意打ちされた挙句、自分一人で処理しようとして海警行動の発令が遅れてしまったのと同様の過ちでした。
第四に、日報という第一次資料を用済み後破棄扱いしていること自体の問題を十分に認識しなかったことです。12月に報告を受けた段階で、日報の取扱いに対して感じた違和感を深掘りするべきでしたが、問題意識が十分でなかったためそこまで踏み込むことが出来ませんでした。
監察結果では、私の知っていた2016年10月の開示請求に先立ち、7月に行われた同種の開示請求に対し陸自内で日報を巡る「不適切な対応」(監察結果)があったという新たな事実が明らかになりました。上に述べた通り「防衛省として日報は公表していることから、情報公開法上は問題ない」(監察結果)という点が私の大きなこだわりでした。ところが監察結果は、このこだわりこそが私の意に反して逆に隠蔽を生んでいたという皮肉な構図を浮き彫りにしました。
どの段階であれ陸自に保管されていた日報の状況を冷静かつ徹底的に調査していれば早期に実態が明らかになったはずなのに、感情的になってこれを拒んだことで、結果的には私自身も知らなかった7月の請求に対する陸自内での「不適切な対応」(監察結果)をも覆い隠すことにつながっていた訳です。
問題を過小評価した上に冷静さを失って判断を誤り、自ら問題を大きくした結果、大臣をはじめ多数の関係者に多大なご迷惑をおかけした上、防衛省に対する信頼をも大きく損なってしまったことについては弁解の余地もありません。
あえて一言で総括すれば「謙虚さを欠いていた」ことがこの失敗の最大の原因だったように思います。一人で抱え込むということは、自分の能力に対する過信の裏返しです。また、いつの頃からか、議論の際に相手の主張に落ち着いて耳を傾けるよりも、自分が正しいと考えるところを強く主張することばかり考えるようになっていた気がします。
立場の如何にかかわらず、自らの正当性を強く主張し過ぎれば独善に陥ります。さらに、事務次官になって二年目ということで慣れと驕りもあったのかも知れません。部下に「どんどん反論してくれ」と言っておられた先輩を目標としていた筈なのに、反論を許さないような独りよがりな態度で仕事をしていたのだとすれば、尊敬する先輩とは正反対の謙虚さを忘れた未熟な振る舞いをしていたことになります。
様々な意味で、大きな悔いの残る失敗でした。
パソコンの強制終了のような格好の悪い辞め方になってしまったので、最後の日は目立たないように退庁しようと考えていました。次官が退任する際には、通常、離任式と栄誉礼、儀仗についで見送り行事が行われますが、当然のことながら全て辞退しました。自分を支えてくれた多くの職員さんたちに挨拶する機会を失ったことは心残りでしたが、停職処分を受けての自己都合退職なので仕方ないとあきらめていました。
ところが、夕方防衛省本館の11階から1階までエレベーターで降りて、扉が開いた途端に目にしたのは、大勢の職員が玄関ロビーに並んでいる姿でした。一瞬何が起きたのかわかりませんでしたが、私を支え続けてきてくれた事務次官室チームの皆がサプライズで見送りを準備してくれていたのです。
ロビーを抜けて車寄せまで歩いていくわずかの間でしたが、長く一緒に仕事をしてきた多くの後輩や職員の人たちに挨拶が出来た上、こんな辞め方にもかかわらず拍手で送り出して頂いたことには心から感動しました。辞職直前の1週間ほどは自らの進退を含めて問題の収拾のためずっと張りつめた気持ちで過ごしていたのですが、みんなの顔を見た瞬間に緊張が解け、車寄せで秘書さんから花束を受け取った時は、こみ上げるものをこらえるのに苦労しました。
その後、車で官舎まで送って頂き玄関に入ろうとしたところ、猛スピードで我々を追ってきた一台の車がありました。「黒江さん!」と呼びながら駆け降りてきたのは、苦しい仕事を一緒に切り抜けてきた二人の若い後輩たちでした。役所で機会がなかったため、わざわざお別れの挨拶をしに追いかけて来てくれたのでした。これには感動のあまり感謝の言葉もろくに言えませんでした。
防衛省最後の日をこんな素晴らしいものにしてくれた数多くの後輩、職員さんたちには、どれだけ感謝してもし切れません。
退官前後に少なからず世の中を騒がせたこともあって、省内外の先輩や後輩、国会議員の先生、さらには一緒に仕事をしたカウンターパートの人たちなどから数えきれないほどの心配や労い、さらには励ましのメッセージを頂きました。それらはどれも本当に心温まるもので、読み返し、思い返すと今でも目頭が熱くなります。
退職の辞令交付を待っている時にある防衛大臣経験者が電話を下さり、「御苦労さん。でも、俺はお前が辞めないといけないとは思ってねえからな」とぶっきらぼうに労って下さったのは胸に沁みました。また、ある政務三役経験者の「あんたね、これは巡り合わせだから。巡り合わせは自分じゃどうにもならないから。ご苦労さんだったな」という独特の説得力ある慰めは素直に胸に落ちました。
辞職直後に防衛大学校長(前校長の国分良成氏=編集部注)から届いたメールは、読みながら涙が止まりませんでした。救急搬送されて入院した自衛隊中央病院では、院長先生から「サムライだと思います」と労われて元気づけられました。官邸でともに総理をお支えした秘書官、内閣参事官チームの面々や秘書官付室の若手のみんなからは、役所の機微を知る人たちならではの温かい励ましを頂きました。
役所を辞して半年間ほど故郷山形で過ごしていた際には、多数の来客がありました。外務省のある大使は、一時帰国の際に訪ねて来て下さって、地元の居酒屋で一晩痛飲しました。かつて安危室で一緒に働いた警察庁や防衛省、外務省の若手の人たちも足を運んでくれました。その中の一人は、わざわざ休暇を取ってパリから駆けつけてくれました。結婚の報告のため、カップルで訪問してくれた後輩もいました。彼ら、彼女らは、みんな私の大切な戦友でした。
外務省の方々と一緒に仕事をする機会が多かったこともあり、海外赴任中の大使の方々からもメールやお手紙を頂戴しました。何度も窮地を助けて頂いたある大使からは、「盟友と呼ばせて頂きたい」という労いのメールを頂戴し、恐縮し、感激しました。
山形で過ごした家内の実家は西蔵王高原にほど近く、40年ぶりに故郷の美しい自然を満喫することが出来ました。また、私の辞職のいきさつを心配してくれていた旧友たちの細やかな気配りは心に沁みました。帰郷当初は私の方が身構えていましたが、中学や高校の同窓生たちは時間をかけて私の心を解きほぐしてくれました。退官直後には積み重なったストレスで体調を崩して入院するほど心身ともに疲れ切っていたのですが、故郷の自然と旧友たちはそんな疲れをいつの間にか洗い流してくれました。
そして、私の最も近くで最後まで一緒に戦ってくれたのが最強の次官室チームでした。この連載では、原則として個人名の記載は避けてきましたが、チームメンバーだけは実名を挙げて感謝させて頂きたいと思います。
官房長時代から支え続けてくれた渡辺君は、私の息子と同い年という若さにもかかわらず、いつも先を読んでサブもロジもパーフェクトにこなしてくれるスーパー秘書官でした。彼なしでは仕事が出来ないほど頼り切っていたため、辞職後かなり長い間「渡辺君ロス」に悩まされました。南スーダン日報問題も、一人で抱え込まずバランス感覚に優れた渡辺君に相談していたらあんな事にはならなかった、と今も悔やんでいます。
秘書の陣内さんは、防衛政策局次長の頃から、官房長・局長、事務次官と、私のキャリアの中で最も多忙だった6年間をずっと支え続けてくれました。毎晩遅くまで拘束される日々だったにもかかわらず、嫌な顔一つ見せずに「笑顔とお菓子は絶やさない」という申し合わせ通りいつもにこやかに接してくれました。最後の日に花束を渡してくれた時だけは、笑顔ではなく涙顔でしたが。
海上自衛隊からは、次官副官として二人の女性自衛官を派遣して頂きました。一年目に副官を務めてくれた重見(旧姓)一尉が、観艦式の展示訓練で海上に漂う火薬の香りに「懐かしい」とつぶやくのを聞いてびっくりしました。彼女は武器の専門家で、私に核融合反応のメカニズムをわかりやすく教えてくれました。
二年目は、特殊言語に精通し北朝鮮のミサイル等の情報に詳しい佐藤一尉が副官でした。その頃から北朝鮮は昼夜の別なく頻繁にミサイルを発射するようになり、彼女は休日にミサイル対応のため美容室を途中にして駆けつけてくれたこともありました。ご両人とも英語が堪能で、完璧に私の日程を管理し、平日休日を問わず国内出張には必ず同行してサポートしてくれました。式典の際、彼女らが海上自衛隊方式で磨いてくれたピカピカの革靴に自分の顔が映ったのには本当に驚かされました。
国会担当審議官の頃からドライバーを務めてくれた清水さんの優しい安全運転は、官用車を貴重な休息の場にしてくれました。毎朝夕の出退庁の車内では、いつも安心し切って寝落ちしていました。東日本大震災が発災した瞬間は、清水さんの運転する車で横須賀に向かっていました。羽田辺りから引き返し、大渋滞の中を10時間以上かけて市ケ谷の本省まで一緒に戻って来た事は決して忘れられない思い出です。
このチームと一緒に仕事が出来たのは、私にとって最大の喜びであり誇りです。
思い描いていたような終わり方ではありませんでしたが、それによってたくさんの方々に支えられた役人人生だったことに改めて気づかされました。そうした絆の一つ一つが、失敗だらけだった自分の役人人生で得られた貴重な宝物です。最後に大失敗を犯しましたが、父親に勘当されながら防衛省で仕事をしてきたのは正しい選択だったと感じています。
この場を借りて、これまでご迷惑をおかけしてきた全ての人々にお詫びするとともに、お世話になった全ての皆様に改めて感謝の意をお伝えしたいと思います。
また、拙稿の掲載を容認し、協力して下さった市ケ谷台論壇の関係者各位に心より感謝を申し上げるとともに、失敗談に最後までお付き合い下さった読者の方々に厚く御礼を申し上げて連載を終了させて頂きます。
ありがとうございました。
◇藤田直央・朝日新聞編集委員の「補助線」
いよいよ最終回。名残惜しいですが、黒江さんが役人人生の最後で渦中の人となり、私も現場で取材した大事件について、心を鬼にして書きます。少し長くなりますがお許しください。
まだ記憶に新しい南スーダンPKO日報問題です。国民の情報公開請求に対する隠蔽と、事後処理をめぐる混乱が防衛省・自衛隊を揺るがし、稲田朋美防衛相、「背広組」トップの黒江防衛事務次官、「制服組」で陸上自衛隊トップの岡部俊哉・陸上幕僚長がそろって引責辞任するという前代未聞の事態となりました。
辞任にあたり防衛相と陸幕長には定例記者会見がありましたが、事務次官にそうした場はなく、黒江さんは黙って去りました。なのでこの最終回は、あの事件に「背広組」トップとして関わった人物の回顧として貴重です。当時私が注目した三者会談の謎(※)については触れられておらず残念でしたが、それでも教訓とすべき重い反省が語られていました。
※藤田編集集員の当時の記事/日報問題、「運命の会議」の謎に迫る 稲田氏・背広組・制服組の暗闘
黒江さんの判断でまさに分岐点だったと感じたのは、「個人データ」への対処です。情報公開請求に対し、陸自から当初「不存在」としていた文書が「個人データ」として見つかったという報告を受けた時、黒江さんは自身もよくやる参考資料としてのコピー程度で開示対象ではないと考え、該当文書は陸自とは別の部署でその後に見つかったものを開示することにしたからいいではないか、と思ってしまったのでした。
しかし、そもそも諸悪の根源は、防衛省・自衛隊における、こうしたご都合主義的な「個人データ」の扱いでした。元はと言えば、陸自で日報を管理する中央即応集団(CRF)が公開請求に応じたくないため「個人資料」とごまかし、それが対象文書を「不存在」とした防衛省の回答につながっていたのです。さらに、陸自では辻褄を合わせるため公開請求を受けた後に日報を破棄。陸自の「個人データ」報告を了とした黒江さんは、この隠蔽に気づけませんでした。
黒江さんは「事態の収拾を急ぐあまり、目先の混乱回避を優先して事実の解明に目をつぶるという誤り」を率直に認めています。それでも私は、組織防衛の観点を超えて、もう一歩踏み込んだ反省をお願いしたい。「個人データ」という言葉を乱用し、公文書を「不存在」にすることは、「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」という情報公開法の趣旨に、真っ向から反するからです。
しかもこの日報は、防衛省の特別防衛監察によれば、防衛省・自衛隊で計218人(うち陸自207人)が保有していました。組織内でそれほど多くの職員に必要であり、かつ秘匿度の高い文書であれば、原本を長期間保存し、複写状況を管理し、公開請求に対しては文書の存在を認めた上で開示範囲を検討すべきなのです。原本を破棄(したと説明)しながら、「個人データ」を多くの職員が持つことは、組織的な情報公開逃れと言われても仕方ありません。
黒江さんの退官から10日ほど後、東京・目黒の陸自幹部学校で開かれた「陸自フォーラム」の主催者あいさつでの前田忠男・陸幕防衛部長の言葉に、私は驚きました。「陸自が隠蔽組織ではという報道もあったが、そういうところは一切ない」と語ったのです。
前田氏は直後の私の取材に、「監察結果を詳細に読まず発言した。詳細に読み、真摯に受け止める」と述べ、稲田氏の後任の小野寺五典防衛相からは、「自衛隊への信頼回復が重要な時期に誠に残念」として注意喚起をされました。
その前田氏がこの3月に司令官となったのが、陸自創設以来の組織改革で3年前にできた陸上総隊です。日報問題の震源地だったCRFがその前身で、任務としてPKOを引き継いだだけでなく、大規模災害や南西諸島防衛などで海自や空自、米軍と連携する陸自の要です。防衛省・自衛隊は日報問題を教訓として情報公開への意識を高め、ますます増える任務と両立させ、発足から67年かけて高めたてきた自衛隊への信頼を保てるでしょうか。注視を続けます。
最後になりますが、こうしてジャーナリストとして問題提起ができるのも、「失敗だらけの役人人生」を共有していただいた黒江さんのおかげです。波瀾万丈の37年間を振り返るにあたり、辛さはぐっと飲み込み、常にユーモアを忘れず、明るく穏やかに振る舞われる姿勢にも学ばせていただきました。
ありがとうございました。そして、本当にお疲れ様でした。
※この連載をまとめた本が年内に朝日新聞出版から出る予定です。お楽しみに!
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