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憲法53条が死ぬとき 臨時国会召集義務をないがしろにした内閣に、司法は対峙すべきだ

踏みにじられた「少数派の意見尊重」と「法の支配」 国民も傍観者ではいられない

豊 秀一 朝日新聞編集委員

 憲法53条後段はいま、死文化の危機にある。条文として存在するだけで、ルールとしては機能せず、削除されたに等しい存在になりかけている。

 4月13日午後、首相官邸であった記者会見での加藤官房長官と記者とのやりとりがその危機を象徴していた。

 記者「2017年に野党の臨時国会召集要求に対して、安倍内閣が応じなかったことをめぐる判決が岡山地裁であった。召集について『単なる政治的義務ではなく、憲法上の法的義務』と判断したが、原告の訴えは棄却された。国としては主張が全面的に認められたという認識か。当時の安倍内閣の対応に問題はなかったという認識か

 加藤勝信・官房長官「ご指摘の訴訟は平成29(2017)年の臨時会召集について、国会議員を原告とし、国家賠償請求訴訟が提起され、審理が続いていたものと承知をしております。本日判決が言い渡され、岡山地裁判決においては、原告の国家賠償請求が棄却されたところであります。判決内容を含めて詳細は承知しておりませんし、また地裁の判決そのものが確定しているわけではありません。関連して他の2件の訴訟も、現在控訴審において係争中でありますから、判決の内容について国として法廷外で見解を述べることは差し控えているところであります。なお、ご指摘の平成29年の臨時国会召集については適切に行われたものと承知をしております

 加藤官房長官が触れている「平成29年の臨時国会召集」とは、森友・加計学園問題の真相解明のために野党が2017年6月22日に臨時国会の召集を求めながら、安倍政権が外交や法案の準備を理由に98日間応じることなく、9月28日に召集するや、審議を行うことなく冒頭で衆院を解散した、この対応を指す。

 憲法53条は、衆参いずれかの総議員の4分の1以上の要求があれば内閣は臨時国会の召集を決定しなければならないと定め、内閣が国会議員の召集要求を無視することなど日本国憲法の起草の段階でも想定されていなかった。召集要求を無視した安倍政権の対応は憲法53条後段違反にあたるとして、野党の国会議員が、岡山、那覇、東京の3地裁に国家賠償請求訴訟などを相次いで起こした。臨時国会召集をめぐる初の憲法訴訟である。

日本国憲法 第53条
 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 那覇、東京に続き、4月13日は岡山地裁が判決を下し、国会議員一人ひとりに臨時国会の召集を求める権利があるわけではないなどとして、結論は「請求棄却」。憲法判断にも踏み込まなかった。判決の受け止めを聞かれた加藤官房長官は、憲法53条後段のルールを無視した安倍政権の対応を「適切に行われた」と述べ、開き直ったのである。憲法を遵守しようという姿勢が全く見られないが、それでも「違憲」判決が出ていれば、「適切」とは言えなかったはずだ。臨時国会召集をめぐる裁判で浮かび上がった課題を考えたい。

臨時国会召集要求への内閣の対応をめぐる裁判の判決後、岡山地裁前で横断幕を掲げる原告側弁護団=2021年4月13日午後1時32分、岡山市北区、高橋孝二撮影 臨時国会召集要求への内閣の対応をめぐる裁判の判決後、岡山地裁前で横断幕を掲げる原告側弁護団=2021年4月13日午後1時32分、岡山市北区、高橋孝二撮影

判決を読めば「適切」とはいえない

 素直に判決を読めば、野党の臨時国会の召集要求を98日間放置したことを「適切」とは到底いえない。岡山地裁判決と那覇地裁判決(2020年6月10日)のいずれも、憲法53条後段の趣旨を以下のように明解に説いているからだ。

 「憲法53条後段に基づく臨時会の召集は、同条前段とは異なり、三権分立制の下、国会による自律的な集会を保障するとともに、いずれかの議院の総議員の4分の1という少数派の国会議員に国会の召集要求の途を開け、少数派の意見を国会に反映させるという趣旨に基づき、憲法上の要請として、議院の総議員の4分の1以上の要求がある場合に臨時会の召集を決定しなければならない旨を定めている」(岡山地裁判決、※太字は筆者)

 「単なる政治的義務ではなく、憲法上明文をもって規定された法的義務であると解される。召集時期について明文上の定めを置いていないものの、内閣は同条後段に基づく臨時会の召集要求がされた後、召集手続等を行うために通例必要な合理的期間内に臨時会を召集する法的義務がある」(同)

 「憲法53条後段に基づく内閣の臨時会の召集決定については、憲法上の規律が比較的明確であり、仮に内閣に裁量が認められるとしても限定的なものといえる」(那覇地裁判決、※太字は筆者)

 東京地裁判決(2021年3月24日)は53条後段の趣旨に言及していないが、岡山、那覇の両地裁判決から読み取れるのは、憲法53条後段に基づく要求があれば、内閣にほぼ裁量はなく、基本的には速やかに臨時国会を開かなければならないということである。この点は憲法学界の通説でもあり、裁判には憲法研究者による意見書も提出されている。自民党が野党時代の2012年に発表した憲法改正草案でも、憲法53条後段を「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」と期限を設けている。

 こうした点を踏まえると、安倍政権による98日間の放置は、「召集手続等を行うために通例必要な合理的期間内」とは到底いえず、審議せずに冒頭で解散したことは、「少数派の意見を国会に反映させるという趣旨」を完全に没却する。「適切に行われた」とする加藤官房長官の発言は、一審段階とはいえ、司法が出しているメッセージにあえて目をつぶる、「法の支配」の軽視そのものである。

衆議院が臨時国会の召集の冒頭で解散、議員たち万歳する中、一礼をする安倍晋三首相、国会議員たち=2017年9月28日、国会内、仙波理撮影 衆議院が臨時国会の召集の冒頭で解散、議員たち万歳する中、一礼をする安倍晋三首相、国会議員たち=2017年9月28日、国会内、仙波理撮影

否定された国の「統治行為論」の主張

 3地裁の中で最も提訴が早かった岡山地裁での第1回口頭弁論は、2018年5月15日だった。口頭弁論が開かれるたび、筆者はほぼ毎回、東京から岡山へ通った。

 驚いたのは、国側が、「臨時会の召集の決定や召集時期の判断は高度に政治性を持ち、裁判所の司法審査権は及ばない」として統治行為論を用いて、反論を開始したことだった。

 国の論理は詰まるところ、政治の世界で解決すべき問題なのだから裁判所は口を出すな、ということである。最高裁が判決で統治行為に言及した代表的なケースは、憲法7条に基づく解散権行使の合憲性が争われた苫米地事件判決(1960年6月)と、米軍駐留をめぐる砂川事件判決(1959年12月)の2件。1950年代の終わりから60年にかけて、違憲審査制を導入して間もない日本が、権限をいかに使い、政治との距離をどうとるのか、米国や西ドイツ(当時)など海外の例を参照し、模索しながら作りあげた理論だった。

 それから半世紀以上が過ぎ、憲法研究者の間で「統治行為の消去」という議論が始まっている。ドイツでもこの理論は衰退している。連邦憲法裁判所の判事を務めたフンボルト大のディーター・グリム元教授(憲法)にメールで取材すると、「裁判所は基本法(憲法)の下で統治行為論が採用される余地はないと確信している」という返事が返ってきた。

 国側が主張するようなかたちで、もし統治行為論を裁判所が受け入れるようなことがあれば、憲法81条で与えられている違憲審査権を実質的に放棄することに等しい。那覇地裁と岡山地裁の判決は、統治行為論を採ることをきっぱりと否定した。

 「内閣が召集決定義務を履行しない場合、少数派の国会議員による国会の召集要求の途を開け、少数派の国会議員の意見を国会に反映させるという趣旨が没却されるおそれがあり、そのような事態が生じる場合には議院内閣制の下における国会と内閣の均衡・抑制関係ないし協働関係が損なわれるおそれがあるというべきだから、司法審査の対象とする必要性が高い」(那覇地裁)

 「内閣による憲法53条後段に基づく臨時会の召集決定の判断には、召集時期に係る判断も含め、高度に政治的判断が介在するものではないから、三権分立に由来し、司法権に内在する制約として、その判断を政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねるべき事項とは解されない」(岡山地裁)

 那覇、岡山両地裁に否定されたが、臨時国会の召集をめぐる判断で統治行為を主張する国の姿勢の背後に見えるのは、近年の政権運営に見られるような、内閣の政治的意思決定を何より優先する発想ではないか。「権力分立」という憲法の基本理念が遠景に退いている。

問われ続ける「責任政治の原則」

 裁判の審理が続いていた2019年9月24日、英国の最高裁が、欧州連合(EU)離脱を前にジョンソン首相が5週間の議会閉会を試みたことを「違法で無効」とし、英国内外で注目を集めた。

 この英国最高裁の判断が、東京地裁の法廷でもとりあげられた。

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