「国民安全保障国家」の前に取り組むべき根本問題
2021年04月30日
朝日新聞時代の先輩、船橋洋一アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長は「フクシマとコロナが露わにした日本の根本弱点」という記事のなかで、「国民の安全を保障する体制をいまだ作れてない」として、「日本は、「国民安全保障国家」を作り上げるときである」と説いている。
その通りかもしれない。だが、「家族から、他人と社会問題について話さないように言われている」という大学生が多い現実を知る者として、その前に取り組まなければならない大問題があると、指摘しなければならない。それは、公共性への無関心をどう関心へと反転させるかという課題である。それは、「私人」を「個人」に鍛えあげることの必要性を意味している。
思想家、柄谷行人の近著『ニュー・アソシエ―ショニスト宣言』(2021)の第二章「アソシエーションとデモ」には、「なぜ日本にはデモがないのか」という疑問に対する回答として、「私が気づいたのは、日本にデモがないのはアソシエーションがないからだ、ということである」との指摘がある。このアソシエーションとは、「自由な連合体」であり、具体的には生産-消費協同組合のような「寄り合い」を意味している。
このアソシエーションがないという現象の原因を、柄谷は、「日本の近代の歴史の特異性、つまり、中間集団、個別社会を滅ぼすことで成立した、近代国家の歴史」に求めている。さらに、「それは明治時代だけの現象でなく、1990年代まで」続いていると指摘している。ついで、彼はつぎのように続けている。
「この間、さまざまな個別社会が、古い勢力、国家・国益を脅かす要素として、次々と非難され制圧されてきました。たとえば、労働組合(国労や日教組)、創価学会、部落解放同盟、朝鮮総連、大学(教授会)の自治――。そのような非難は、グローバリゼーションというスローガンの下でなされたのです。二〇〇〇年の時点で、こうした個別社会、中間勢力はほぼ壊滅してしまいました。その上に、首相小泉純一郎が登場し、彼に対するあらゆる抵抗を「守旧派」として否定したわけです。」(182-183ページ)
この結果、どうなったかというと、それは、世襲議員によって支配された専制国家ニッポンという現実の継続となっていまにつづいている。柄谷はつぎのように指摘している。
「代議制が寡頭政ないし貴族政だということは、今日、かえって露骨に示されています。たとえば、日本の政治家の有力者は、二世・三世、あるいは四世です。彼らは、各地方の殿様のようなものです。その点では、徳川時代と変わらない。むしろ、徳川時代のほうがましでしょう。徳川時代では、世襲といっても、実質的に養子制にもとづいていたからです。また、幕府の老中は、藩の規模・ランクよりも大名の個人的能力にもとづいて選ばれていた。それに比べて、現在の代議制はどうか。未曾有という字を読めない首相がいる。未曾有の事態です。もちろん、字が読めても同じことです。官僚が考えたことを読むだけですから。官僚を攻撃して喝采を浴びる政治家がいますが、結局のところ、別の官庁や官僚が決めたことに従っているにすぎない。ゆえに、現在の日本は、国家官僚と資本によって完全にコントロールされている。だから、専制国家だ、というべきです。」(186-187ページ)
そのうえで、この専制国家から抜け出す方法として柄谷が強調するのは、代議制以外の政治的行為としてのデモである。代議制は代表者を選ぶ寡頭政にすぎず、それは民衆が参加する民主主義ではない。「参加的民主主義は、議会だけではなく、議会の外の政治活動、たとえば、デモのようなかたちで実現される」というのが柄谷の基本的な考えである。「代議制だけならば、民主主義ではありえない」が、「デモのような行為が、民主主義を支える」というのだ。
ところが、長い歴史のなかで日本人にしみついてしまった「公共性への無関心」こそ、デモを支えるアソシエーションづくりを阻む要因となっている。そこで、日本人の公共性への無関心という問題について論じてみたい。実は、「公共性への無関心」については、最近公表した拙稿「市長控室にサウナを設置 池田市・冨田裕樹市長の公私混同:公共性への無関心という病」において簡単にふれておいた。ここでは、もう少し丁寧に説明することにしたい。
まず、和辻哲郎著『風土』(岩波文庫)における興味深い考察を紹介する。少し長くなるが、適宜、「中略」を挟みながら、彼の文章をそのまま
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